ミステリー
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ミステリー 2019年06月01日 23時00分
不老不死を求めた秦の始皇帝が探した「蓬莱国」
今から2200年前、我が国では縄文文化から弥生文化へと変わりつつある過渡期だったが、中国大陸では秦の始皇帝が乱立する諸国を統一し、権勢を振るっていた。全ての物を手に入れた始皇帝であったが、唯一手に入れることが出来なかったのが永遠の命であった。 ここで始皇帝に近づいたのが徐福という人物であった。この人物に関する記述は司馬遷の『史記』の「淮南衝山列伝」に見られる。『史記』の記載によると、紀元前219年に徐福が始皇帝にある進言を行う。遥か彼方の東海に蓬莱・方丈・瀛洲という仙人が住む三神山があり、そこに不老不死の妙薬があると述べたのだ。 この徐福なる人物は、中国の方士であり斉国の琅邪の生まれであったとされている。長らく架空の存在だと思われていたが、1982年、江蘇省に徐福村が確認され子孫たちが多数現存することが判明しており、架空の人物ではないことが確定しつつある。 進言を受け入れた始皇帝の命を受けて、徐福は3000人の男女童子・様々な職人を従えて、多額の金銀や五穀の種、農耕機具を持って大船団で東海に向けて旅立って行ったが、平原広沢にて王となり、二度と帰らなかったとされている。たぶん、始皇帝は徐福の甘言に引っ掛かっただけという指摘もあるが、悪意があったのか、何らかの理由で帰れなかったのかは不明である。中国の専門家の中には,徐福=神武天皇と解釈する者もおり、神武東征とは徐福船団の来日ではなかったのかと言われている。どちらにしろ、我が国の成り立ちにこの人物が関与したのは事実であろう。 徐福が目指し上陸した場所は具体的に一体何処であったのだろうか。一行が目指した場所は「トヨアシハラミズホ」であり、「ホウライ」とも呼ばれている不老不死の妙薬のある仙人が住む聖地であったはずだ。 その候補地は幾つかある。最も有力な場所は熊野である。現在の和歌山県新宮市や三重県熊野市波田須には徐福の史跡が残されているという。熊野に定着した徐福一行は、そこで共同体を作り、連れて行った童子たちは周辺の集落の長となったとされている。確かに熊野なら聖地にふさわしい。 他にも沖縄県や愛知県にも上陸伝説はあり、台湾や北米大陸まで行ったという極端な仮説も唱えられている。 正史では徐福の行動は記録されていないと言われているが、富士吉田の神社に所蔵されている『宮下文書』には、徐福が築いた古代富士山国について詳細に書かれているという。徐福の幻の王国は歴史の闇に消えてしまったのだ。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年05月26日 23時00分
咲くのは不吉の前兆?「竹の花」開花が全国で相次ぐ
現在、日本各地で不思議な「花」が目撃されて話題になっている。 それは「120年に一度しか咲かない」と言われる竹の花だ。花と言っても普通の花とは違った形状で、白く細い稲穂のような小さな房が現れ、風に揺れるものだ。 竹の開花の周期は種類によって違うが、咲くまでの期間はかなり長く、人間の寿命より長く咲かないものもある。またほんの数日で散ってしまうため、咲いたところはめったに見られない。 竹の花が咲くというのは、今年の春ごろから日本各地で報告されていた。俗説として「竹の花が咲くと不吉なことや天変地異が起こる」と言われていた。これだけ竹の花の報告が相次ぐということは、日本を何らかの天変地異が襲うのでは……と噂されている。 果たしてこれは事実なのか。 前述の通り、竹の花が開花する周期は非常に長く、開花するタイミングも解明されていないようだ。だが切られたり、環境の変化などの外的ストレスによって開花することもある。また種類によって違いはあるが、開花の後に地上に出ていた部分は枯れてしまう。 竹は一本一本が独立しているように見えて、地下茎でつながっている。生い茂っている竹やぶ一つがまるごとつながっているケースもあるのだ。それぞれの竹がつながっているせいか、開花が連鎖することもある。一斉開花の引き金となる原因や仕組みはまだ分かっていないが、少なくとも不吉なことが起きるわけではないのは確実なようだ。 しかし過去の記録を振り返ると、1960年代から70年代にかけて国内で栽培されていたマダケが、数年にわたり一斉に開花。その結果、全国的な竹不足が起こったとされている。ということは、これから竹不足になることも考えられるのだ。 容易に加工ができ、タケノコが食料にもなる竹。それが一斉に枯死するというのは、昔の人の生活にとってかなりの打撃だったに違いない。「不吉の前兆」という言い伝えはここにも理由があったのではないだろうか。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年05月25日 23時00分
平家盛伝説 実は壇ノ浦の合戦の後で五島列島に逃げていた!?
「平家にあらずんば人にあらず」は有名な言葉だ。平家最後の頭領となり一時は栄華を手にした平清盛。彼は若い頃、粗暴でありたびたび問題行動も起こしていたため、若い頃は彼がそのまま頭領になることに反対する者も少なくなかったという。 そこで白羽の矢が立ったのが清盛の異母弟・平家盛だった。家盛は御輿(みこし)に矢を射るなど粗暴な行為で評判を悪くしていた兄・清盛に代わり、周囲の推薦もあり頭領になる可能性が出てきた。だが、持病を押して鳥羽法皇の熊野参詣に随行したところ、帰京の途中に宇治川流域の落合で病状が悪化し、命を落としてしまう。 こうして、清盛の頭領は確実になるのだが、あまりにタイミングの良い家盛の死について「御輿に矢を射た清盛のせいだ!」「祇園社のたたりだ」という噂が流れることになった。 この家盛の早い死はのちのち、平氏の滅亡につながっていく。平治の乱によって、捕虜になった13歳の頼朝の顔が、家盛に似ているという池禅尼(家盛の実母であり清盛の継母)の懇願により、命を助けてしまう。この頼朝によって源氏が打倒平氏に動くことになるとは、清盛は思っていなかっただろう。前述の家盛が亡くなった際に「たたり」という言葉が出てくるが、むしろ神が入っているとみなされている御輿に矢を射てしまい、神の怒りを買ってしまい、清盛の代で平家が滅亡する結果につながったとも言えるのではないだろうか。 なお、長崎県・五島列島の宇久島には家盛の銅像がある。実は壇ノ浦の合戦の後、平家盛と名乗る人物が一門と一緒に逃れてきたという伝説があるのだ。家盛は、宇久次郎家盛と名乗り、宇久氏(五島氏)の祖先となったとされている。果たしてこの家盛と名乗る人物は本物だったのだろうか? まず家盛が死んでからかなり年月が経っている上に、もし家盛が頭領の相続争いに負けて隠居の道を選んでいたとしても、後の政争に巻き込まれて謀殺・誅殺された可能性の方が高い。であるから、彼は重盛の子であり名前の似ている平有盛の間違いではないかという説も出ている。ただ、家盛が密かに生きていたと解釈するほうがロマンチックではあろう。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年05月19日 23時00分
日本最大の古墳に埋葬されているのは誰なのか?巨大古墳に隠された大きなミステリー
ユネスコの世界文化遺産に大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」が登録される見通しとなったと5月14日、文化庁が発表した。ユネスコの諮問機関イコモス(ICOMOS)が「(世界遺産一覧表への)記載が適当」と勧告したとのことだ。 さて、百舌鳥・古市古墳群は2つの地域に分かれた45件49基の古墳群をさす。造られたのは古墳時代の最盛期だった4世紀後半から5世紀後半にかけて。代表的な前方後円墳を筆頭にさまざまな大きさの古墳が点在しており、大阪府堺市の百舌鳥地区に23基、羽曳野市・藤井寺市の古市地区に26基が存在する。現存するこれらの古墳群は、傑出した古墳時代の埋葬の伝統や、社会・政治的構造を証明するものであり「顕著な普遍的価値を備えている」と判断されたとのことだ。 さて、この古墳群には有名な古墳も含まれている。日本最大の古墳、大仙陵古墳だ。墳丘部分の長さは480メートル、後円部の直径が250メートル、高さ36メートル、前方部の幅が305メートル。世界でも類を見ない規模の墳墓だ。 みなさまの中には、この大仙陵古墳について「仁徳天皇陵古墳」と習った人もいるのではないだろうか。古代の文献によれば、仁徳天皇の崩御後に古事記では「毛受之耳原(もずのみみはら)」、日本書紀では「百舌鳥野陵(もずののみささぎ)」に葬られたとある。また、平安時代の法令集「延喜式」によると、仁徳天皇は「百舌鳥耳原中陵」という広大な敷地を持つ墳墓に葬られたとされている。「延喜式」では北側に反正天皇陵、南側は履中天皇陵があるとしているため、位置関係から考えても、大仙陵古墳に埋葬されているのは仁徳天皇だとみなされていたことが分かる。 しかし、現代の考古学調査によれば、仁徳天皇の子・履中天皇の墳墓とされる上石津ミサンザイ古墳が百舌鳥古墳群の中では最も古いことが判明している。一方の大仙陵古墳は墳丘上に残された円筒埴輪の形式から、5世紀の半ばから後半にかけて造られたと考えられている。仁徳天皇が4世紀前半に崩御したという記述と比較すると、半世紀ものズレが出てきてしまうのである。 それでは大仙陵古墳に葬られているのは誰なのか。現在、大仙陵古墳は歴代天皇や皇族も参拝しており、宮内庁が管理しているため学術的な発掘調査が不可能となっている。そのため、調査は進まず埋葬者は不明のままだ。 だが、2018年になって宮内庁は古墳保存のため、堺市などと共同で発掘調査を進めると発表。同年11月には埴輪などが新たに発見されている。世界遺産登録をきっかけに調査が進めば、謎めいた巨大古墳の真実が明らかになっていくかもしれない。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年05月18日 23時00分
桂原古墳に「飛行するロケット?」の壁画がある?
世界各地で発掘される古代遺跡の中からは時おり、当時の人は考えつかなかったであろう「未来の技術」の産物に似たものが発掘されることがある。例えばマヤ・アステカの墳墓から出土した石棺のふたには、コクピットに座る宇宙飛行士のような人の姿が彫刻されていた。また、日本の斜光器土偶は、その独特な姿から、宇宙飛行士をモデルにしているのではないかとする説が存在していた。 熊本県不知火町の桂原古墳では、”飛行するロケットの壁画”が発見されている。こちらはジャガーバックス発行の「宇宙人のなぞ」にある日本の宇宙遺跡分布図で紹介されていた。懐疑派、否定派では誰もツッコミを入れていないので、山口敏太郎が指摘を入れてみる。 3000年以上前の壁画と推測されるこのロケット図は、宇宙人が古代日本に渡来した証拠だと言われている。だが、同じ桂原古墳で発見された壁画を見ると、船とイルカの線画もあり、ロケットではなく南太平洋で使用されているカヌーの絵だと推測できる。 桂原古墳は、海に向かって口を開く石室が主流で、彼らの死生観が海に向けられていたことが分かる。海の向こう、誰も知らない水平線の果てに浄土や楽土があるとする考え方は珍しくない。沖縄ではニライカナイと呼ばれる、神の住まう楽土と冥土が合わさったような場所が水平線の向こうにあると考えられていた。 同地で目撃される不知火にも、多くの不思議な逸話がある。 不知火はアイヌ語で”宇宙から降りてくる光“、あるいは“天かける船”という意味であり、太平洋戦争の末期には不知火海上で原因不明の戦闘機墜落事故が相次いだとされている。このエピソードを受けて「九州大学のUFO研究グループがプリズム分光器を使って、不知火と不知火海上に出現したUFOの発光を分析したところ、同じ不連続波長が出た!」という話が同書には記されている。 おそらく不知火の中にはUFOが混じっており、UFOに惑わされて戦闘機墜落事故が起きたということなのだろう。しかし、そもそも最初に目撃されたUFOは、不知火と見間違えたのではないだろうか。最初に目撃されたUFOが不知火であれば、不知火と同じ不連続波長が出ても不思議ではない。もちろん、不知火そのものが蜃気楼の一種であることは、ほぼ確定的なことだ。不知火を知らなかった海外の戦闘機であればいざ知らず、地元の戦闘機乗りが勘違いして操縦を誤ったとは考えにくい。 昔の子供向けオカルト本には、このように当時の読者を楽しませる目的で誇張した記述が多かったのである。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年05月12日 23時00分
木曽義仲の使った火牛の計は嘘だった?
源平合戦には、多くの魅力的な合戦シーンがあった。那須与一の扇を射抜くシーンや、壇ノ浦で義経が見せた八艘(はっそう)飛びなど、今でも多くの人が思い浮かべられるシーンは多い。中でもインパクトが大きいものは、倶利伽羅(くりから)峠の「火牛の計」だろう。 『源平盛衰記』にも描かれているこのシーンは、倶利伽羅峠で源義仲が、5万の軍勢で約10万と、数で勝る平家討伐軍を打ち破った。その勝利の背景には「牛の角に松明(たいまつ)をつけて敵中に向けて放つ」という「火牛の計」という策が存在したというものだ。 『源平盛衰記』には以下のように書かれている。 「牛四五百疋取り集て、角に続松結付て、夜の深るをぞ相待ける。……時を合せよとて、四五百頭の牛の角に松明を燃して平家の陣に追入つゝ」 400〜500頭もの牛が、夜の闇を切り裂いて敵陣に突っ込む。しかも、どの牛の角にも松明が燃え盛っている…なんともダイナミックな戦闘シーンだ。 しかし残念ながらと言うべきか、当然と言うべきか、この「火牛の計」は創作である可能性が高いと言われている。 牛は臆病な動物であり、非常に目も悪い。頭に火を近づけられると動けなくなるか、混乱して暴れてしまうというのだ。400〜500頭もの牛に松明をつけるだけでも相当時間がかかるのに、牛がおびえて暴れてしまっては自陣が混乱に陥るだけ。作戦どころではなくなってしまう。 また当時、牛馬は物資運搬に用いることができる貴重な軍事資源の一つでもあった。そんな牛を大量に無駄遣いするような策を、当時の戦況でやすやすと実行できるわけがない。 現在、この「火牛の計」は、中国戦国時代に斉国の武将・田単(でんたん)が用いた「火牛の計」のエピソードを下敷きにし、後世になって追加・脚色されたものであろうと考えられている。田単の「火牛の計」は、角に剣、尾に松明をくくりつけた牛を敵陣に放つというもので、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすという、火計にアレンジを加えたものである。 この場合、牛は火を目にしてもおびえることはないし、尾の炎も策を仕掛ける直前につければ自軍に影響が出ることもない。また、文字通り尻に火がついた牛が敵陣に向けて真っすぐ走っていくというのも、考えられなくはない。もっともこの策も、牛を使いすぎると失敗する場合もある。自軍への被害の方が大きくなる可能性があるので、実際は小規模なものだったとみられている。 そもそも敵の虚をつき、攻め込むきっかけを作り、自軍に有利に戦局を動かすことができれば策としては十分に成功と言えるだろう。実際の策や計略においては、ドラマチックさやダイナミックさは二の次と考えた方がいいのかもしれない。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年05月11日 23時00分
三代将軍・徳川家光の父は徳川家康で母は春日局だった?
参勤交代の制を整えるなど、江戸幕府の基礎を築いた三代将軍・徳川家光の父は徳川家康、母は春日局だったいう奇説があるという。 徳川家光は二代目将軍である徳川秀忠の嫡子であったが、幼い頃から病弱で無口な子供だったという。そのため、周囲も弟である忠長の方が将軍に向いていると考えており、家光は母親であるお江の方にも疎まれており、思いあまって自殺を図るほどであった。 これを重く見たのが乳母の春日局であった。江戸城大奥の礎を築いたとも言える彼女は、稲葉正成の妻で慶長九(1604)年に家光の乳母となるために江戸へ赴いた。なお、大奥入りの前に夫とは離別している。江戸城で彼女は家光に対し、乳母として愛情を注いでいたが、家光の置かれた現状に憤慨して、伊勢参りを口実に江戸城を出ると、当時駿府にいた大御所である徳川家康に現状を直訴しに行ったのである。その結果、家康からの言もあり、家光は三代将軍になることが決定したのである。 しかし、一介の乳母に過ぎない春日局に、大御所である家康を動かす事ができたのだろうか? 家康が旧来の「家督は長子が継ぐもの」という考えを揺るぎなく持っていたという事も考えられるが、前述のように家光が実は自分と春日局の子だったから、という説が存在しているのだ。確かに、そう考えると実の母に邪険にされたり、乳母の春日局がまるで生母のように家光を溺愛した理由も解らなくもない。 また、この説の証拠となる文献が存在するという。江戸城に存在した紅葉山文庫の蔵書『松のさかへ(栄え)』の記述だ。『史籍雑纂』第2巻にも収録されており、内容は徳川家内々の話をまとめたものとなっている。巻一は「東照宮様御文」、つまり家康から送られた言葉となっており、そこには息子である秀忠の正室、お江の方へ子供の教育方法を述べている内容が書かれている。ちなみに信長の命によって切腹することになった長子、信康に対する自分の教育の失敗を述べている内容もあり、 家康本人の子育てに対する苦悩が窺える文章となっている。 そして、この箇所の文末に下記の記述が存在する。 「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局、三世将軍家光公也/同御二男 國松君 御腹 御臺所 駿河大納言忠長公也」 つまり、家光を産んだのは春日局であると書かれているわけだ。また、日光山輪王寺には、家光が生涯持っていた「御守袋=細い和紙」には、「二世権現、二世将軍」と書いているのだ。つまり、初代権現の家康の次の権現というわけだ。実際は二代目将軍は父親である徳川秀忠が務めているが、秀忠を差し置いて「二世権現」と言えるのは、彼が家康の子である証拠に他ならないというのだ。果たして、これは真実なのだろうか。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年04月28日 23時00分
坂本龍馬も挑んだ?「蝦夷の埋蔵金伝説」
土佐・高知が生んだ英雄・坂本龍馬の墓は京都の霊山護国神社にあり、直系の子孫の墓は北海道の浦臼町に存在する。龍馬の故郷に系譜は残っていないことになるが、この事実には、日本史の超A級タブーとされている2つのミステリーが隠されている。 その1つが「蝦夷の埋蔵金伝説」だ。 龍馬は生涯に2度、脱藩浪士を用いて蝦夷地(現在の北海道)に移住し、開発する計画を口にしている。そのどちらも、かなり唐突だった印象がある。時期から言えば、京都にあふれる浪士たちへの弾圧が始まる直前というところが共通する。 1度目は神戸海軍学校で塾頭を務めていた時。実際に部下2名を現地視察に送り出した。2度目は幕府の長州征伐が薩長の密約で失敗に終わろうとしていた頃で、徳川慶喜が15代将軍に内定したころでもある。それは、龍馬暗殺の1年前でもあった。 龍馬の計画は本気で、薩摩藩の五代才助を担ぎ薩摩藩の保証でロシア商人から船まで購入している。 当時、江戸幕府の隠し財産や、戦国武将の埋蔵金のうわさが各地にあった。各藩のトップ官僚たちは、どんな小さなうわさでも真剣に耳を傾けていた。 「幕府が隠し財産を使えば、情勢はすぐにひっくり返る」「倒幕派が埋蔵金を奪えば維新回天に大きく貢献するだろう」 埋蔵金の行方は、「幕府につくか、倒幕派に入るか」と悩んでいた諸藩にとって、大きな判断材料になっていたのだ。そうした埋蔵金、お宝伝説にたびたび登場するのが未開の大地・蝦夷。当時からミステリアスゾーンとして話題に事欠かない人気スポットでもあった。 蝦夷を直轄する松前藩では砂金が採取されたことから、カリフォルニアドリームならぬ「蝦夷地ドリーム」に拍車がかかり、手つかずの金脈、金鉱が多数眠っていると信じられた。当時の蝦夷地には、武田信玄がアイヌから巻き上げた国家予算級の埋蔵金が眠っているという「お宝伝説」が江戸初期から伝えられた。財宝が眠るとうわさされた場所の近くには、お宝を守っているかのようなモニュメントがあり、伝説のモンスター化に拍車をかけていた。 地理的に遠く離れた九州の人々が抱く蝦夷地の印象は、宇宙人をイメージするのに似ていた。薩摩で語られる蝦夷地に関する情報は「冬は寒い」以外、伝聞に過ぎなかったはずだ。伝聞だけなら、ほら話に終わっただろう。しかし、情報通で知られる大物浪人の坂本龍馬が、持ち前の会話術でお宝伝説を繰り広げたことで、信じる人も出てきてしまったのかもしれない。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年04月27日 23時00分
司馬遼太郎と大村益次郎に関する不思議な話
作家というのはその作品と、奇妙なシンクロ関係に陥る場合がある。 時代小説の大家・司馬遼太郎の記念館が大阪府東大阪市にある。現在、同館の天井には奇妙な形のシミが浮き出ている。どうもこの形が写真によく出てくる、坂本龍馬の頭部に似ていると指摘されており、司馬遼太郎の代表作「竜馬がゆく」の主人公が記念館で姿を現す形になったのか、とファンの間で噂になった。 また、司馬は国立大阪病院(現在の大阪医療センター)で死亡しているが、この場所は、司馬の代表作のひとつ「花神」の主人公・大村益次郎が死んだ病院であった。 このように、著作に関係の深い歴史上の人物と、著者の共通点が発覚するケースや、明らかに創作上の出来事であったのに、現実に同じようなことが起きてしまうケースは多々報告されている。 実は筆者・山口敏太郎にも、同様の経験がある。 筆者の率いる会社は「山口敏太郎タートルカンパニー」である。このタートルカンパニーという名前は、よくトータルカンパニーと間違えられるのだが、亀山社中にちなんだものだ。株式会社化する前は海猿隊(かいえんたい)と名乗っていたのだが、社長が「龍馬が暗殺されてしまうので縁起が悪い」として亀山社中を選んだ。 そんな軽い気持ちで付けた社名だったのだが、奇妙な偶然が起きている。 社員を募集すると、とある姓を持つ、土佐にルーツを持つ人が入ってきた。一般人なので名前は伏せるが、亀山社中にも土佐藩出身の同名の人物が存在している。 後日、現存する亀山社中を訪れる機会があったのだが、その前に筆者はある日本家屋を訪れる夢を見ている。そして、亀山社中の屋敷の構図や間取りが、全て夢に見た日本家屋と一致していたというデジャブのような経験もしている。 作家や漫画家は、神の見えざる手によって操られることがあるのだろうか。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年04月21日 23時00分
ノートルダム大聖堂を守っていた?奇妙な怪物の彫刻「ガーゴイル」
4月15日(現地時間4月14日)、パリのノートルダム大聖堂から出火。9時間にわたって燃え続け、屋根や尖塔などが焼失した。火災で部分的にもろくなっている箇所もあり、修復作業は今後数年かかるとみられている。 出火原因は現時点では不明だが、現在ノートルダム大聖堂は改修作業中。火元は屋根裏だったこともあり作業の際の失火ではないかとみられている。幸いにして、改修作業のため美術品が持ち出され、貴重な芸術品や聖遺物も現場から素早く運び出され無傷であったという。 ノートルダム大聖堂を飾る彫刻の中で、有名なものの一つにガーゴイルというものがある。テラスや屋根に設置された恐ろしげな怪物の像で、頭に角が生え、背中に翼を生やしているものが多い。何らかの怪物をかたどったものと思われがちだが、実は雨樋(あまどい)だ。 13世紀、ゴシック建築で建てられた大聖堂は構造上、屋根から流れ落ちる水が壁面を濡らして漆喰(しっくい)を侵食してしまう。そこで、外壁から離れた場所に水を落とす吐水口が必要だった。怪物のデザインを施した結果、現在ガーゴイルと呼ばれる彫刻になったのだという。「ガーゴイル」という名前も、うがいなどでなどを鳴らす音からついた名前である。 なお、現在のノートルダム大聖堂を飾るガーゴイルの多くは19世紀の修復の際に加えられたものだという。外壁を飾っていた彫刻の大半はフランス革命時に破壊されてしまったそうだ。 そんなノートルダム大聖堂を飾っていたガーゴイルたちは、修復作業のために大聖堂から取り外されていた。ガーゴイルは雨樋としての用途があるため、一種の火災よけの意味があるという解釈も存在する。火災が発生したのはガーゴイルが移動された4日後に発生しているため、火災と何らかの関係があるとみる人もいるようだ。 なお、フランスのマクロン大統領は5年以内に大聖堂を再建すると宣言したが、数十年はかかるのではないかとする見方もある。 いずれにせよ、フランス・パリを代表する歴史的建築物なだけに、再建を願ってやまないものである。(山口敏太郎)
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ブードゥー殺人の謎(完)
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続々・ブードゥー殺人の謎
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