ミステリー
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ミステリー 2019年07月06日 23時00分
急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける“邪馬台国四国説”、邪馬台国は阿波だった!?
いつの時代も人の心を捉えて離さないのが邪馬台国論争である。主な仮説には九州説や畿内説があり、変わった比定地では愛知説、沖縄説、台湾説などがある。近年、邪馬台国ファンの間で熱く語られているのが、邪馬台国四国説である。かつて筆者の子供時代、『邪馬台国は阿波だった』という本が発売されて話題となったが、最近また、インターネットで邪馬台国四国説が注目を集めている。本稿ではその可能性を探ってみよう。 方角的には九州説が有力だが、時間や距離があまりにも合わない。畿内説ならば距離的には申し分ないが、方角が全く違う。長らく九州説と畿内説が対立してきた理由はそこにある。それが畿内に近い四国東部に設定すると、方角と距離の矛盾が一気に解消されてしまうのだ。まず、末廬国などほぼ確定している地域は良しとして、九州北部から出航してみよう。九州と四国の間の洋上を南下したあと四国の南の沖合に回りこむ。さらに、四国の南の地域(室戸あたりか)に上陸、そのまま徳島まで陸路で行ったとしたら、畿内説や九州北部説より、方角と距離にまだ説得力はないだろうか。 四国の阿波に何か古代の秘密があるというのは、徳川光圀も気が付いていたようで、江戸に修史局を開き大日本史の編纂に乗り出した後、元禄10年(1697)、突然、徳島藩や老中土屋相模守政直を呼びつけている。そして、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じた。つまり、水戸黄門は古代の天皇の墓は淡路と徳島にあると睨んでいたのだ。 学者たちもきな臭い動きをしている。阿波出身の国学者・小杉榲邨は、邪馬台国阿波説においてキーとなる騒動を起こしている。明治5年、小杉が『阿波古風土記考証』を出版した時、何故か回収騒動に発展している。しかも、当時蜂須賀家と徳川家にあったはずの『阿波風土記』の原本さえも所在が不明になってしまったのだ。 この回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも言われている。もちろん、『阿波風土記』の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されているのだ。 ちなみに、幾つか残る『阿波風土記』の断片のうち、興味深いものを紹介しよう。だが、ここから先は次回に譲ろう。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月30日 23時00分
何故、怪談や妖怪は学校で生まれるのか? その地位を脅かす場所も…
日本は世界でも稀に見る伝説・昔話や妖怪の王国である。日本人ならば、昔話を10話ぐらい挙げることは容易であり、いずれもストーリーのおおよその流れが頭に入っている。 また、妖怪名も20、30個ぐらいは容易に列挙できる。 これに関しては、水木しげる、手塚治虫、永井豪など錚々たるメンバーが、妖怪漫画で啓蒙を行った功績によるところが大きいのだが、我々日本人ほど妖怪好きな国民はいない特性も手伝っているだろう。これほど、妖怪に対して理解があるのは、世界を見渡してもわが国ぐらいであろう。 そんな妖怪だが、21世紀の現在、大部分がインターネット上の情報交換によって生まれている。怖い話や妖怪情報を交換するBBS(電子掲示板)やサイト上において、名前も知らない者同士が交流し、新たな妖怪伝説が生まれているのだ。「てけてけ」「ニンゲン」「ヤマノケ」「八尺さま」「ひさる」などネット上から生まれた妖怪は様々だ。その内容は、必ずしも現代的なものではなく、土着的な民話や妖怪像の系譜を引いているのが面白い。我々が怖いと思うモチーフやファクターは意外と古臭く泥臭いものなのだ。 基本的に妖怪や伝説(現代では都市伝説であるが)は、人々がコミュニケーションすることによって生まれる。ゆえに人間の生々しい交流が無くなった現代では、せいぜいネット上の交流ぐらいしか、妖怪を生み出すことはできないのだ。人間同士の交流を阻害したり、少なくすると批判されたネットが、妖怪を生み出す媒体になったとは裏腹である。 このネット以外に、妖怪を生み出す媒体がある。それが“学校という共同体”である。かつては血縁的、地縁的な結びつきをベースにした“村や町という共同体”が、人間のコミュニケーションの場となり、多くの伝説や妖怪を創り出してきた。 その“村や町という共同体”が崩壊した後、出てきたのが“学校という共同体”であった。この共同体は、都会や田舎に関係なく存在し、過疎などで崩壊することはない。勿論、私立学校ならば倒産することもありうるのだが、大部分の学校が卒業生を送り出し、新入生を迎え入れることで世代交代を繰り返しながら、存続していく。 つまり、新入が誕生であり、卒業が死なのだ。このように世代交代が可能ならば、伝説のストーリーが上級生から下級生に伝聞されることにより洗練され、より面白い“学校の怪談”や“学校の妖怪”が生まれうるのだ。 平成以降は、この学校怪談が主流となっていたが、最近は新しい共同体が生まれつつある。それが“会社の怪談”である。「こどもおとな」が増加した企業では、職場で多くの怪談や妖怪が生み出されているのだ。共同体がある限り、人と人とのコミュニケーションがある限り、妖怪や伝説が生まれていく。まったく、妖怪や伝説が生まれない日が来たら、それこそ人類は危ない状況なのかもしれない。(監修:山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月29日 23時00分
ミサイル!?葉巻型UFO!?謎めいた小惑星「オウアムア」
現在、はるかかなたの宇宙から我々の太陽系を目がけて奇妙な物体が接近し、遠ざかっているという。その物体がこちら。長く先細ったこの物体は、まるでミサイルのようだ。しかも、この物体は内部が高温であり、全体的に赤く光って見えるという。 2017年10月19日に発見されたこの物体は、その速度と軌道から小惑星であるとみられている。 ハワイ・ホノルルの天文学研究所のカレン・ミーチ(Karen Meech)博士らは、チリの超大型望遠鏡の観測結果から、この物体が大きさ約400mで、常に回転しており明るさが大きく変動するなどの特徴があると発表した。 観測内容から判断して、この物体は岩石や金属からなり密度が高く、水や氷はないという。また、長時間にわたる宇宙線の照射の影響で表面が赤くなっていると考えられるという。 これらの観測結果から、この小惑星は別の星の周りで形成された後に何百万年もの間、宇宙空間をさまよい、太陽系まで接近してきた可能性があると考えられている。 ワシントンDCにあるNASAの科学ミッションディレクター、トーマス・ツルーチェン(Thomas Zurbuchen)氏は、今回の小惑星の発見を「我々の太陽系の成り立ちや、他の天体の形成を研究するための新しい手がかりになり得る」と述べている。 この小惑星は現地のハワイ語で「遠くからの来訪者」を意味する「オウアムア(オウムアムア)」と名付けられた。 そんなオウアムアの追跡調査は現在も続けられており、中には衝撃的なことが判明したケースもあった。 例えば太陽系内を移動中だったオウアムアは猛烈に加速しており、これは太陽系内の惑星の重力以外の力がオウアムアに作用している可能性が高いというのだ。これは「オウアムアの表面から放出された気体物質の噴流」によって引き起こされた可能性が高く、彗星に近い挙動とのことだ。 そんな点から、オウアムアが小惑星ではなく彗星である可能性や、さらには葉巻型の故障したエイリアンの宇宙船ではないかと考える研究者が出てきたのだ。 2017年11月に『The Astrophysical Journal』で発表された研究では、オウアムアがエイリアンの高度な技術から生み出された高速艇か、あるいは太陽系を調査に来たエイリアンの探査艇のどちらかの可能性があるという論文が出されており、地球外の知的生命体を調査するSETIの科学者たちは「オウムアムアがエイリアンの宇宙船である」という可能性を探ろうと、何らかのシグナルが出されていないか検証も行っている。 だが、「オウアムア=UFO説」は否定されている。2017年12月の『Nature Astronomy』によれば、炭素を豊富に含んだ厚さ30センチ以上の黒い皮膜がオウアムア全体を覆っており、彗星である可能性が高いようだ。 オウアムアは現在も太陽系から遠ざかる形で、猛スピードで宇宙を飛んでいる。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月23日 23時00分
海老蔵はこの運命を越えられるか…市川團十郎の呪いと悲劇の歴史
来年2020年の5月に、現・市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名する。 團十郎家には数々の因縁がある。以前筆者が別の記事で説明したが、名跡そのものに呪いの連鎖があることを再度説明しておこう。なぜか團十郎という名跡を継ぐと、不幸になってしまうのだ。 まず、初代團十郎は役者仲間に舞台上で刺殺されている。人気役者が舞台上で演技中に刺殺されるなど考えられないことだ。 二代目團十郎は、日本初の千両役者となったが、絵島生島事件に巻き込まれ、事態の収拾に奔走する日々を送った。三代目の團十郎は、寛保元(1741)年に大坂で上演中、病に倒れ、翌年(1742年)に死去している。 四代目團十郎は67年の人生を送った。五代目團十郎も名人と評され、文化3(1806)年、66歳の天寿を全うした。歴代團十郎の中で平穏な人生を送ったのはこの2人ぐらいだ。 六代目團十郎は襲名後、風邪をこじらせて急死。22歳であった。さらに七代目團十郎は、暫(しばらく)、外郎売(ういろううり)などの歌舞伎十八番などを選定したが、天保13(1842)年、天保の改革により、江戸から追放されている。八代目團十郎は、『切られ与三』の与三郎役で人気を博した二枚目だが、嘉永7(1854)年、江戸から追放された父親(七代目團十郎)に会うために大阪に行くが、旅館で自殺してしまう。動機は分かっていない。 九代目團十郎は、八代目團十郎の弟。養子に出された先で、強盗の被害に遭っている。本人は九死に一生を得るが、養父は刺し殺された。また、五代目・市川新蔵を養子として、十代目にすべく育成するが、新蔵は病で片目を失明、その後急死した。十代目團十郎は、死後にその名を追贈された九代目の娘婿であり、生前に團十郎と名乗ったことはない。28歳で銀行員から転職した異色の歌舞伎役者だったが、役者としては恵まれなかった。 十一代團十郎は、他家から十代目市川團十郎の養子に。昭和37(1962)年4月『一億円の襲名』と呼ばれた襲名劇により、歌舞伎人気を復活させる。だが、襲名から3年半後の昭和40(1965)年11月10日、胃癌で死去。悲劇の名優とされた。そして、十二代目の市川團十郎は、白血病を発症しながら名優への道を進んでいたが、2013年に惜しまれながら死去した。 このように、この團十郎という名跡そのものが大変な因縁と宿命のある名前なのだ。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月22日 23時00分
八代将軍・徳川吉宗は本当に「暴れん坊」だったのか?
テレビ朝日系列で放送され好評だったドラマ『暴れん坊将軍』は、名君の誉れ高い八代将軍・徳川吉宗の活躍を描いている。吉宗は紀州藩主の四男坊に生まれ、兄たちに世話をかけながら一生“部屋住み”の不遇な人生を送る予定であったが、身内が続々と7人も死んでしまい藩主、将軍へと成り上がった。あまりの運の良さに、実は身内を暗殺して出世を遂げたのではないかと言われている。 吉宗は御三家のひとつ紀州藩の第二代藩主・徳川光貞の四男として生まれた。藩主の息子といえども、四男では藩主の座につけるはずもなく、そのまま凡庸な人生を送る予定であった。特に長兄である徳川綱教は、五代将軍・徳川綱吉の娘・鶴姫を正室に迎えており、順調な人生を送っていた。しかも、息子を亡くしていた徳川綱吉は次期将軍として、娘婿である徳川綱教を考えるほどであった。 だが1704年、将軍家との重要なパイプ役であった鶴姫が死去。その翌年、長兄・徳川綱教も突然、病気で亡くなってしまう。その心労からであろうか、父である徳川光貞も亡くなってしまった。次男は早く亡くなっていたので、三男であった徳川頼職が紀州藩主の座に就くが、だが、この徳川頼職も父の死から一か月後に亡くなってしまった。 義理の姉、長兄、父親、三男が続々と亡くなり、反対する身内もなく吉宗は奇跡的に藩主の座につくことが出来た。後は将軍職を狙うだけであったが、尾張徳川家というライバルがいた。だが、ここでも謎の不審死が続く。まず1713年、第四代藩主・徳川吉通が死去し、三歳になる息子・徳川五郎太が藩主の座に就くが、その直後に亡くなってしまう。さらに、吉通の異母弟・徳川継友が第六代藩主となるが、これまた在位十数年で亡くなってしまった。こうして悉く身内のライバルが死んでしまい、吉宗は紀州藩主、そして幕府の将軍へと成り上がることに成功した。 享保元(1716)年、吉宗は紀州藩主から八代将軍となり、二百人を超える紀州藩士を連れて江戸に向かう。用心深い吉宗は、腹心たちを幕府の中に配置することで、自らの安全を確保しようしたのであろうか。 また、吉宗は藩主時代から使っていた御庭番を幕府でも採用している。これは吉宗直属の諜報部隊であり、江戸市中や大名、旗本の動きを探っていたと言われている。この御庭番こそが、吉宗が暗殺部隊として使っていた行動チームではないのか。後に第七代尾張藩主の徳川宗春が何かにつけて吉宗に反抗的な態度を取っているが、その背景には、肉親たちの死に吉宗の暗躍があったと確信していたからかもしれない。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月16日 23時00分
人斬り以蔵のピストルが発見されていた? 勝海舟からもらったものか
2006年、「人斬り以蔵」こと岡田以蔵が所有していたとされるピストルが公開された。フランス製であり、同じ土佐藩出身だった坂本龍馬の依頼で護衛をした勝海舟からもらったものではないかと推測されている。高知県内の子孫(以蔵の弟の末裔)が保管していたものである。 幕末期、幕府はフランスの支援を受けていたため、当時既に幕府の重臣であった勝ならば手に入れていてもおかしくない。なお、幕末の人物で拳銃を所持していた有名な人物と言えば龍馬だが、彼が所持していたものは、アメリカのスミス&ウェッソン製モデル2アーミー32口径の6連発と7連発の二挺であった。 以蔵が勝の元にいた時、勝の紹介でジョン万次郎を警護したというエピソードがある。以蔵が見事に刺客を撃退し、お礼に万次郎が銃を贈ろうとしたら辞退したというものがある。剣客だけに、銃の贈呈を辞退したと思われていたが、勝から既にもらっていたから辞退したのであろうか? とはいえ、万次郎と以蔵の両者が江戸にいた時期に矛盾が発生するため、このエピソードは後年の作り話である説が高い。 さて、「人斬り」の二つ名を頂くほど刺客として鳴らした以蔵だが、彼が発砲したという記録はない。命を受けて様々な人物と相対してきた以蔵だが、中には絞め殺した事例なども存在している。純然たる刺客であった彼が、殺傷能力を十分に備えている武器を持ちながら使用しなかった理由は何だろうか。 一つは、銃はあれども弾がなかったという説。舶来品の銃は貴重品であり、弾数に限りがある。使用したとして、弾切れになってしまった場合、彼の立場や身分では弾を入手するのは至難の業であっただろう。 もう一つは、やはり手に馴染まなかった可能性だ。銃器、特に拳銃の場合は銃身が短いため狙いが付けにくい。至近距離でもない限り、相当練習を重ねないと、遠くにいる対象に当てるのは至難の業なのである。ちなみに、龍馬も寺田屋襲撃の際に捕り手に向かって発砲しているが、6発撃って命中したのは1発だけ、それも流れ弾のような形だったという。また、暗殺を行っていた以蔵の場合、大きな発砲音で居場所がばれたり、騒ぎになってしまうのは避けたいだろう。 そして、もう一つがお礼にもらった上等な品だったため、記念にずっと使わなかったという説だ。以蔵は足軽の長男という、当時でも低い身分の家に生まれている。そんな自分が幕府の重臣の護衛役を仰せつかり、お礼に貴重な品をもらったと言う事で、宝物のように大事に保管していたのではないかというものだ。 いずれの説も仮説でしかないが、幕末期の拳銃は非常に貴重な資料である事は間違いないだろう。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月15日 23時00分
茶の湯の革命家・千利休が死を選んだ理由 謹慎処分にまつわる噂とは
侘茶の大成者である千利休は、政治のフィクサーとして暗躍した謎の多い人物である。この男、機を見るに敏であり、信長亡き後はただちに秀吉に乗り換えている。 日本人における茶は、平安時代の初期に空海や最澄、栄西が中国から日本に伝えたとされており、茶葉が持つ薬効を期待されたものであった。その後、茶の味を飲み分けて勝敗を競う賭博的な闘茶を経て、茶の湯が生まれる。さらに、村田珠光や武野紹鴎によって侘びの世界観が構築されていき、堺の豪商の息子に生まれた千利休によって、芸術の域まで昇華された。 利休は茶聖とも呼ばれ、数多くの革新的なことを行っている。まず、水質に徹底的にこだわり、天王山の麓、山崎の地から湧き出る水を好んで用いた。また、茶道の作法を確立する上で、キリスト教の所作を参考にしたとも言われている。通常、茶道の作法では、参加者はお茶を回し飲みし、茶菓子を分けあって食する。これはキリスト教の聖餐式において、ワイン(血)を回し飲みし、パンを分けて食べる行為と似ていると言われているのだ。これは単なる偶然ではない。武者小路千家の家元の千宗守氏が日本経済新聞2010年12月16日夕刊にて述べている有力な仮説だ。 また、侘茶の概念の中に”市中の山居”という言葉がある。これは町中において孤独な空間を構築し、その空間の中で茶をたてるという茶人の真理を意味するものだが、この考え方は、キリストが荒野で修行した故事に由来するのではないか。このようなキリスト教と利休の関連に関しては、山本秀煌の『西教史談』、長富雅二の『ザベリヨと山口』などの書籍において唱えられたのが始まりである。 よくよく考えてみれば、利休の弟子や友人には蒲生氏郷や古田織部、高山右近らキリシタンが多い。極端な話、千利休の洗礼名が聖ルカ(St.Luke)であり、その音読みから千利休という名前を創ったという”とんでも仮説”さえ出てくる始末だ。作家の山田無庵は、神戸市立博物館に保管されている南蛮屏風にこそ、千利休の謎が隠されていると主張する。この屏風は利休の切腹から数か月後に描かれたものだが、構図の中に謎のキリシタン茶人が確認できる。この人物こそ、キリシタン利休だというのだ。 彼がキリシタンであったかどうかは不明だが、彼は南蛮人も多く訪れた大阪・堺の豪商の家に生まれている。南蛮人との交流のうち、キリスト教の所作や文化を知って作法に取り入れたとしても不思議はない。 天正十九(1591)年2月13日、利休は謹慎処分を受け、半月後の28日に切腹を命じられる。理由は不敬罪とも言われているがはっきりしない。もしかすると、政治の裏側を知りすぎた存在となってしまったため、処分が下ったのかも知れない。利休はこの命に逆らうことなく、切腹を受け入れている。自らの身に起きた事態を理解していたのか、運命に抗うことなく全てを受け入れるのも「侘」としたのか。彼の真意は解らない。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月09日 23時00分
古墳は古代の宇宙人から伝わった!?火星の前方後円墳とは
5月14日、ユネスコの世界文化遺産に大阪府の「百舌鳥・古市古墳群」が登録される見通しとなったと文化庁が発表した。 百舌鳥・古市古墳群は2つの地域に分かれた45件49基の古墳群を指し、日本最大の古墳、大仙陵古墳を始め、古墳時代の埋葬の伝統と社会・政治的構造を証明するもので、顕著な普遍的価値を備えていると判断され、ユネスコの諮問機関イコモス(ICOMOS)も「(世界遺産一覧表への)記載が適当」と勧告した。 さて、古墳といえば、誰もが思い浮かべるのが鍵穴のような形状の前方後円墳だが、これが「宇宙人によって伝えられた物ではないか?」とする説が海外から出てきている。 問題の説は、Googleの地図アプリ、グーグル・アースの拡張機能であるグーグル・マーズにて、海外のUFOファンが火星地表上に前方後円墳に酷似した地形を発見した事に始まる。グーグル・マーズで6°3'57.07"N 92°4'13.22"Eの座標の位置を確認すると、いくらか風化や浸食を受けたように見える、前方後円墳らしき岩山の姿が確認できるのだ。なお、この岩山と大きさや形が酷似した古墳が、埼玉県のさきたま古墳群にも存在している。 到底、人に築ける規模に思えないため、宇宙人が古代人に知恵を授けて作製したのではないかと想像させたのではないだろうか。玄室内に奇妙な模様が描かれている古墳が存在する点も、宇宙へのメッセージを送っているのではないか、という解釈に結びつける事もできる。 …という事で「古墳は宇宙人が作った?」という説が出たようだが、世界に目をやると、割とよく見られるトンデモ説のひとつに過ぎないようだ。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月08日 23時00分
明治まで生きた新撰組伝説 死亡したはずの美男隊士が日清戦争で活躍していた?
幕末の動乱期を駆け抜けた新撰組。血塗られた激しい青春を送った彼らは昭和初期までは賊軍という扱いを受けてきたが、昨今ではその一徹な生き方に評価が高まっている。多くの隊士が命を散らす中で、生き残った者たちは明治以降、どのように生き抜いたのであろうか。 噂によると、一部の隊士は引き続き日本のために戦っていたと言われている。新撰組で沖田総司と並び、凄腕の遣い手と言われた斎藤一は会津藩士となり、幕末を生き抜いた斎藤は明治10年(1877年)2月には、警視局の警部補に任ぜられ、2月15日に勃発した西南戦争において、抜刀隊として参加し、薩摩の西郷軍に大ダメージを与える活躍をして、戊辰戦争の恨みを返したという。かつて、官軍として新撰組を追った薩摩兵が官軍になってしまった斎藤により、討たれてしまうとは皮肉な話である。 原田左之介は、史実では上野の彰義隊の戦いに参加し、その時に負った傷がもとで死亡したことになっているが、異説では上野、新潟、下関、釜山を経て大陸へと渡り、馬賊の頭目になったとも言われている。馬賊の頭目とは、変わり者の原田らしいが、不思議なエピソードも幾つか残されている。 日清戦争(或いは日露戦争)の時に、大陸で日本軍の活動を援護する馬賊がおり、不思議に思った若い兵士が尋ねてみたところ、馬賊の頭目は「私は新撰組の原田左之助である」と名乗ったというのだ。また、一度だけ日本に帰国し、実弟や甥に昔話をして再び大陸に帰っていったという話もある。 また、大の甘党で無類の怪力が売り物だった島田魁は、最後まで土方歳三に付き従い、箱館戦争まで戦い抜いた歴戦の隊士である。明治以降は、レモネード屋、剣術道場など様々な商売をやるが悉く失敗、西本願寺の夜間警備員となるが、仕事中に倒れ亡くなってしまう。最後まで、土方歳三の戒名を持ち歩いていたというエピソードが泣かせる。(山口敏太郎)
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ミステリー 2019年06月02日 23時00分
明治政府が封印した謎の古文書『阿波風土記』に何が書かれていたのか?
邪馬台国阿波説の支持者は、古事記などに記された神話時代の出来事は全て徳島で起こったと考えている。これは第1章でも指摘した通りだが、その物的証拠となるのが『阿波風土記』であるという。本稿では『阿波風土記』を中心に、もう少し突っ込んだ視点で考えてみたい。 『阿波風土記』には幕末のある学者が関わっている。幕末から明治にかけて活躍した阿波出身の国学者・小杉榲邨(こすぎすぎむら)がその人である。彼の代表的な著書が「阿波国徴古雑抄」である。この書物は阿波関係の古書、古文を網羅しており、阿波徳島の古文書に詳しい人物であった。 この名著で名前が全国に知られていた小杉は、邪馬台国阿波説に絡み、キーとなる出版に関する騒動を起こしている。明治5年、小杉が『阿波古風土記考証』を出版した時、何故か回収騒動に発展しているのだ。しかも、当時蜂須賀家と徳川家にあったはずの『阿波風土記』の原本さえも、所在が不明になってしまったのだ。 回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも言われている。もちろん、『阿波風土記』の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されているのだ。つまり、江戸時代まで(身分によっては)見ることが可能であった文書であった。 今、この『阿波風土記』は何処にあるのであろうか。噂では宮内庁で厳重に保管されていると言われている。この所在不明となった『阿波風土記』が出てくれば、中国系の渡来人であった藤原家がねじまげた正史の真相が明らかになるはずだ。 幾つか残る『阿波風土記』の断片のうち、興味深いものを紹介しよう。その内容は、空から大きな山が阿波国に落ちてきた。その山が砕け散り大和国に落ちて、天香久山になったとされているのだ。 これはなんの比喩なのか。阿波で成立した国家が奈良に移動したととれないだろうか。 不気味なことはまだある。阿波出身の国学者である池辺真榛は、延喜式の研究を行い、自分の故郷である阿波国が日本のルーツだと確信した。その後、池辺は阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げている。一説には毒殺されたとも言われているのだが、阿波藩は何を恐れていたのだろうか。幕末から明治初期にかけて、邪馬台国阿波説のメイン資料やキーマンが消されているのだ。 幻の古文書『阿波風土記』、それが出てくれば大和朝廷のルーツも判明するのかもしれない。(山口敏太郎)
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