「昭和62年(1987年)がドラフトの一番感慨深い」
同年ドラフトの主役は、長嶋一茂(立教大)だった。父・茂雄氏の長男に対し、巨人はどう対処するのかも注目されたが、他にも、野田浩司(九州物交=阪神1位)、盛田幸妃(函館有斗高=大洋1位)、岡本透(川崎製鉄神戸=大洋2位)、野村弘(PL学園=大洋3位)、伊良部秀輝(尽誠学園=ロッテ1位)、堀幸一(長崎海開高=ロッテ3位)、吉田豊彦(本田技研熊本=南海1位)、柳田聖人(延岡工高=南海3位)、大道典良(明野高=南海4位)、吉永幸一郎(東海大工高=南海5位)、村田勝喜(星稜高=南海6位)、武田一浩(明治大=日本ハム1位)、芝草宇宙(帝京高=日本ハム6位)、橋本清(PL学園=巨人1位)、鈴木健(浦和学院=西武1位)など、後に第一線で活躍する猛者も多く指名されている。
しかし、同年のドラフトが突出して『後の主役選手』が多かったわけではない。何故、ベテランスカウトが同年のドラフトを「感慨深い」と言うのか−−。指名選手全員がプロ入りした初めての年だからである。
ドラフト会議は1965年に始まったが、全員がプロ契約するまで23回目の同年まで歳月を費やしたのだ。
ドラフトには『表』と『裏』の話がある。強行指名、密約、裏金、特定球団への執着心などが実しやかに囁かれている。この87年も鈴木健が早大進学を一変して西武入りし、中日3位指名の上原晃(沖縄水産高)も進学表明していたため、他球団が指名を回避した。彼らが指名球団と申し合わせをしていた形跡は全くない。本当に欲しい選手を指名し、その熱意が通じたのだが、翌88年は『指名拒否者』を出してしまった。
私見を加えるならば、この翌88年のドラフトが興味深い。88年の『舞台裏』を知ることで、いかに87年ドラフトが意義深いものだったかも再認識できる。
88年はまず、阪神、中日が『球団職員』の指名という裏技を使う。阪神=中込伸(神崎工高/1位)、中日=大豊泰昭(球団職員/2位)。81年、西武が伊東勤(所沢高)を抱え込んだのと同じで、“本家・西武”は1位でプロ入り拒否を明言していた渡辺智男(NTT四国)を、2位でも会社残留を宣言した石井丈裕(プリンスホテル)の強行指名した。
他の1位指名では、3選手に対する抽選も行われた。後年、『巨人キラー』としても一時代を築く川崎憲治郎(津久見高)の抽選に、藤田元司監督が参加したのも何かの運命だろうか。同年ドラフトでもっとも会場がどよめいたのは、西武3位指名。日高高中津分校の垣内哲也の名前が呼ばれたときだった。「分校」というアナウンスに報道陣も戸惑っていた。
これだけの謀略、独自戦略が飛び交う年も珍しい。それにはある有望左腕の去就が影響していたという。東京六大学リーグで通算31勝を挙げた志村亮(慶応大)が「絶対にプロに行かない!」と言い切ったからだ。これを受け、12球団は確実に欲しい選手を獲る方向に一変した。また、志村がプロ入りを拒否した理由も衝撃的だった。
「高校1年の地獄の日々は、何億円積まれても二度とやりたくない」
しかも、このコメントはスポーツ新聞だけではなく、一般紙にも掲載されていた。有望左腕がその素質を開花させるチャンスを自ら摘み取ってしまったことは、多くの学生野球関係者にも暗い影を落とした。
ドラフト史上初の全員入団を勝ち取った87年と、深謀の指名が繰り広げられた88年は対照的である。野茂英雄たちが指名されるのは89年。この3年間がドラフト史の分岐点になったのではないだろうか。(一部敬称略/スポーツライター・美山和也)
※1966年ドラフト会議は『高校生と社会人』、『大学生と国体に出場した高校生』の2回に分けて開催されております。そのため、87年のドラフト会議を「24回目」とカウントするジャーナリストもいますが、本編は関係各位にも確認し、「1966年第2回第一次」、「同第二次」と位置づけ、87年を23回目と表記いたしました。