愛知県豊田市吉原町にあるトヨタ車体(株)・吉原工場の北側に小さな霊園がある。その中に「六部の墓」がひっそりと立っている。墓標には、「浅野五ヱ門 岡崎出身」とある。六部の名は浅野五ヱ門といい、その名前から武士と判断される。だが、いかなる理由で故郷を捨て、巡礼者になったのか、その理由は不明である。さらに「寛文3年4月3日、野猿のため終焉」と刻まれている。すなわち、この六部の死因は野猿によるものであった。
近年、ニホンザルが農作物を食い散らかし、住民へ危害を加えるなどの「猿害」は山間部に近い地域で深刻な問題になっている。サルの行動域が市街地に広がってきて、 被害が拡大してきているのだ。しかし、野猿による殺人は例がない。どのようにして野猿は六部を殺害したのであろうか?
寛文3(1663)年4月、一人の六部が、吉原(愛知県豊田市)から岡崎に向って急いでいた。日も暮れかかり、辺りは薄暗くなり、だんだんと心細くなってきた。行く道はは木々が欝蒼とした雑木林の小道である。引き返して宿に泊まるのも面倒くさいし、野宿にはまだ寒い、半時も歩けば岡崎に辿り着く。六部はそう決心し、急いで歩き出した。六部の足音に驚いた鳥が飛び立ち、枯葉を踏みしめる足音が前・後ろに音が続き、夜道には六部が叩く鐘の音が響き渡っていた。
「早く、雑木林をぬけなければ」と、六部が足を速めた時、一匹の野猿が目の前に飛び出してきて、六部目がけて飛び付いてきた。そして、腋の下や背中など体中コチョコチョと擽り始めた。
「アハハハ、アハハハ、やめてくれ!」六部はしがみついてくる野猿を振り払えずにいた。そのうちに、六部は笑い過ぎて、胸がドキドキし、腹も痛くなってきた。着物も手甲も脚絆も破られてしまった。「アハハハ、アハハハ、苦しいもうやめてくれ!助けてくれ!」遂に、笑いながら六部は息絶えてしまった。
六部の死後、山内茂七と野場長衛という者が六部を哀れんで墓を建てた。人々は六部の墓として、懇ろに弔ったという。
(写真:「吉原町南墓地」)
(皆月 斜 山口敏太郎事務所)