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競輪人国記 広島(4)

 中野浩一への憧れから競輪選手になった人が多い中で、和田誠吾(55期)は「まくりのスペシャリスト」として現在の石丸寛之(岡山)的な存在だった。
 「中野さんや本田晴美さんから応援してもらっていたので同期の鈴木誠(千葉)には負けたくなかった」という和田だが、特別競輪はもう少しのところで逃がしてしまった。だが、昭和62年の競輪祭では(1)(1)で勝ち上がり準決も2着で優勝戦に進出している。
 現況、ぱっとしない成績だが「体調不良が続いていた」という。とは言え、ツボにはまったときのまくり追い込みはまだまだ侮れない。弟子に前反祐一郎(81期)がいる。この人も師匠同様、調子に波はあるが、ツボにはまると大物を食う。

 工正信(55期)は広島商の甲子園球児だった。高校3年のときには、池田高に決勝で敗れたが準優勝。投手の工は3回投げて無失点という記録を残している。競輪選手になってからは「まくりか番手競り」で売り出し、平成元年の花月園・日本選手権では小川博美(福岡)のまくりにマークして2着の実績がある。位置取りにこだわるだけに失格、落車も多く、もうひとつ大スターになれなかった。平成元年には賞金額で立川グランプリの出場権を取りながら選手会のボイコットでレースが中止という不運もあった。
 62期の小林豊は「第二の工」といわれるマーカー選手で、常に2種類のフレームを持って競走に臨んでいる。相手いかんによってはダッシュの効く「児玉フレーム」で、競りのレースでは「岡山ハンドル」を選択する。
 そんな小林だが、レースを離れたときの風貌は競輪選手に見えない。特別競輪に初参加したときには係員に報道関係者と見間違えられたというエピソードもある。

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