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戦国時代 落ち武者狩りの恐怖 生き延びることができた徳川家康

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徳川家康の三大危機と言われるものがある。「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」である。その中でもっとも危なかったのが「伊賀越え」だ。

伊賀越えとは、本能寺の変で織田信長が明智光秀に殺されたとき、家康は信長の誘いで大坂の堺にいた。そのとき家康の家来はわずかに34人、明智勢1万3000人。もし明智光秀が、家康が堺にいることを知れば、草の根を分けてでも間違いなく殺しにくるはず。

このとき家康、大いにうろたえ信長公の後を追って自害すると言い出すほどの絶体絶命の大ピンチであった。それを本多忠勝などの家臣たちが必死にとどめて、正規のルートではない伊賀の山を越え、伊勢湾を船で渡って命からがら三河に戻ったという。

このとき、家臣の穴山梅雪は落ち武者狩りに襲われ落命。ある家臣の日記には家康一行が、雑兵(落ち武者狩り)約200人を討ち取ったという記録が残っているほどの、命がけの逃避行であった。

では落ち武者狩りとは何か? 中世の日本では、村の領域に無断で入って来た「よそ者」に対して、自衛権があり落ち武者などの敗者は法の保護から外れる「法の外の人」とされ、財産や命を奪っても何も悪くないと考えられていたのだ。

黒澤明の名画「七人の侍」では、弱々しい百姓が雇われたサムライに鍛えられるシーンがあるが、現実では当時の百姓は武装しており、アルバイト代わりに足軽として最前線の戦場に出て戦い、実戦慣れしており極めて狂暴。

農民たちは敗残兵から村を守るため、村の領域に逃げてくる落ち武者を抵抗すれば殺し、降参すれば身ぐるみを剥いで、村の収入とした。これは農民たちの権利でもあったのだ。

ルイス・フロイスによると、百姓たちは自衛のために武装しており、例え領主の兵でも少数でいると、追剥にあったと書かれている。

関ケ原の戦いでは、敗れた薩摩藩兵が山道を逃げていると、村人500人に襲われたが撃退したという記録もある。

落ち武者狩りは、農民が個々の気分で行ったのではなく、組織的に行われたというのもわかっている。

家康の場合34人とはいえ、まとまった軽武装勢力があり、伊賀や甲賀の土豪が味方になってくれ、かなりの金もあったので、落ち武者狩りに遭う前に、村に交渉して金を渡すなどができたおかげで奇跡的に助かったようだ。

ちなみに東京の名物に「佃煮」があるが、これは伊賀越えのとき、大坂の淀川を渡ろうとしたのだが、あいにく船がない、そのとき手を貸してくれたのが地元佃村の漁師たちで、船を用意してくれた。
(おそらくこのとき家康側が相当な金を渡したか、もしくはかなりの恫喝をしたであろうとぼく個人は推測している)

ともあれ生き残った家康は大いに感謝し、佃村の漁師たちを江戸に呼び寄せ、白魚漁の特権を与え定住させたという。そこで作られたのが佃煮であるそうな。

落ち武者狩りで殺された武将として有名なのは明智光秀。落ち武者狩りで捕縛されたのは石田三成などがいる。

明智光秀や石田三成ほどの有名な武将でも、落ち武者狩りから逃れられなかったのだ。

プロフィール

巨椋修(おぐらおさむ)
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。
2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。

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