このような事態を悔やんだのは、およそ30年前に山口を採用したジャニー喜多川社長、そして、時間を共有したメンバーだ。なかでも、リーダーの城島茂の落胆は、ハンパないに違いない。そもそもTOKIOは、この2人によって立ちあがった音楽グループだからだ。
TOKIOのスタートは、城島茂バンドという、城島と山口の2人組。実際に、光GENJIのコンサートで演奏したことがある。のちに、ジャニー社長から「世界に通じる名前にしなさい」と助言されて、TOKIO BANDに改名。そして、現在のTOKIOに落ちついた。
この“TOKIOゾーン”に突入する前には、城島と山口に国分太一、のちにV6となる坂本昌行、長野博、井ノ原快彦ほか、退所した数名のジャニーズJr.は「平家派」を名乗って活動していた。ところが、大成することなく解散に追い込まれている。そのとき山口は、高校生。生活が一転した。アルバイトに精を出して、糊口をしのいだ。
高校を卒業するまでは、ガソリンスタンド。さらに、今のようなデジタルカメラ時代ではなかったため、カメラ屋でもバイトした。職種はフィルム集配。バイトを終えてから、レッスンを受ける毎日だった。
レッスンが終わっても、ベーシストとして腕を上げるために、城島と会って練習をした。そのまま、深夜まで続けた。そして翌朝、ネクタイを締めてバイトに出かけることが日常だった。当時の住まいは、都内の合宿所。仲間ジャニーズがアイドル稼業に打ち込んでいたそのとき、山口はスーツを着て、「じゃあ、行ってくるね」と合宿所を出て、バイトで汗水を流したのだ。
合宿所生活を終えて、初のひとり住まいをしてからは、金欠になった。まず、冷蔵庫を買えなかった。そのため、ボールに氷を入れてジュースを冷やすなどの工夫を凝らした。電気を止められたこともあった。食うにも困った。そのときの救いとなったのは、事務所のタレントが食品関係のCMに起用された際にもらった関連商品である。後輩Jr.で分けあって、一生懸命食費を浮かせた。
山口のやや先輩にあたる城島も、ド貧乏生活を強いられていた。まともな食事ができなかったため痩せていき、手に吹き出ものができた。病院に行くと、「栄養失調」と診断された。
文字どおり、同じ釜の飯を食ってTOKIOを国民的音楽グループにのしあげた城島と山口。袂を分かつ今後、どんな受難が待ち受けているのだろうか。