search
とじる
トップ > スポーツ > 【記憶に残るプロ野球選手】第8回・“こんにゃく打法”で女性ファンをとりこにした梨田昌孝

【記憶に残るプロ野球選手】第8回・“こんにゃく打法”で女性ファンをとりこにした梨田昌孝

 プロ野球では、落合博満(ロッテ→中日→巨人→日本ハム)の神主打法、種田仁(中日→横浜→西武)のガニマタ打法のように、独特のバッティングフォームで打つ選手もいるが、ひときわ特異なフォームをしていたのが、後に近鉄バファローズ、日本ハム・ファイターズで監督を務めた梨田昌孝(61=元近鉄)だ。梨田のフォームは、そりゃもう独特なものだった。バットは上段ではなく、腰のあたりに低く構え、腰を落として力を抜き、プルプルと体を動かしながらタイミングを取るという極めて変わったものだった。全身の力を抜いて、柔らかい体勢で構えることから、“こんにゃく打法”という奇抜なネーミングで呼ばれた。

 今ではダンディな紳士である梨田。当時はBSもCSもなく、パ・リーグの選手にスポットが当たる機会は少なかったが、端正なマスクの梨田は、その特異な打法もあって、女性ファンをとりこにしたものだ。60歳を過ぎた今でも、世の熟女たちから熱い支持を得ている。普通、「あんな変わった打ち方で、よく打てるな」と思ってしまうのだが、梨田には合っていたのだろう。3割を打ったことこそ1度もないものの(規定打席到達で)、捕手としては高い打率をマーク。79年に19本塁打を記録して以降、4年連続で2ケタ本塁打を放つ長打力もあった。

 長く、近鉄の正捕手として活躍したイメージがあるが、意外に出場試合は多くない。通算成績は1323試合、874安打、113本塁打、439打点、打率.254と、たいしたことはない。その理由は、同時期に同等の力をもった有田修三捕手(近鉄→巨人→ダイエー)がいて、併用されることが多かったからだ。有田は当時の近鉄の大エースで、通算317勝を挙げ、後に近鉄の監督も務めた鈴木啓示の専属捕手としても活躍した。そんな強力なライバルがチーム内にいることで、出場機会が限られたが、逆にライバルがいたからこそ、「負けられない」との思いでプレーできたのかもしれない。

 1979年に有田から正捕手の座を奪うと、同年の球団史上初のリーグ優勝に大きく貢献。以降、3年連続でベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞。83年には4度目のダイヤモンドグラブ賞を受賞するなど、黄金期の近鉄を支えた。強肩で全盛期の盗塁阻止率は5割前後あり、投手から絶対的な信頼を勝ち得ていた。88年シーズン限りで現役を引退すると、NHKの野球解説者に就任。パ・リーグ出身ながら、温厚な人柄と甘いマスクで人気者になった。

 梨田は指導者としても有能だった。93年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして、古巣・近鉄に復帰すると、96年から二軍監督を務め、00年には一軍監督に昇格。1年目は最下位だったが、2年目の01年には近鉄をリーグ優勝に導いた。近鉄監督は5年間務めたが、オリックス・ブルーウェーブへの吸収合併による球団消滅に伴い、04年で退任。オリックスヘッドコーチ就任の打診があり、新監督・仰木彬氏からも慰留されたが、これを固辞し、NHK解説者に戻った。

 3年間、グラウンドの外から野球を見た後、新たなオファーは全く縁がなかった日本ハムからのものだった。この誘いを受けた梨田は08年に同球団の監督に就任。1年目は3位だったが、2年目の09年には見事、リーグ優勝を果たし、2球団で優勝監督となった。11年で退任したが、4年間で3度Aクラスに入った。2球団での通算9年の監督生活で、2度のリーグ優勝を経験し、Aクラスが6回。通算成績は645勝(歴代20位)594敗21分け、勝率.521と勝ち越している。日本シリーズ制覇こそならなかったが優秀な監督だった。日本ハム監督退任後も、阪神タイガースの監督候補にリストアップされるなど、その指導力は高く評価されている。

 その後、再びNHK解説者に復帰。12年10月には、山本浩二監督のもと、日本代表チームの野手総合コーチに就任。13年3月に開催された第3回WBCを指導者として経験している。今後、誰もまねをすることがないとも思われる“こんにゃく打法”で、ファンの記憶に鮮明な印象を残した梨田は、監督としても、まぎれもなく“レジェンド”だ。

(ミカエル・コバタ=毎週火曜日に掲載)

関連記事


スポーツ→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

スポーツ→

もっと見る→

注目タグ