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競輪人国記 三重(2) プロとしての言動を貫いた“名物男”加藤功二

 28期にはしぶとい選手が揃っていた。高岸豊治と竹田恵一、中谷勝、玉木由雄だ。中谷は先行で活躍したし、練習熱心で知られた高岸と竹田の二人は特別競輪でも実力を発揮した。先行まくりから追い込みの鋭さを見せた高岸は「あいつはいつ自転車から降りているのだろう」といわれたくらい街道やバンクでの練習に打ち込んでいた。

 竹田は早めにマークに変わり重い競りをした。59歳の今も現役で頑張っている。この9月には還暦を迎えるというからすごい。スピード競輪の今も若手に混じって走る姿には感動さえ覚える。片岡浩也(49期)や梅澤謙芝(59期)舛井幹夫(71期)を育てた。また若手の田中充(87期)東鉄矢(88期)と練習して頑張っている。
 29期には加藤功二と東富夫がいた。東は先行でけっこう上位の先行を破った。加藤は名物男だった。ジュニアのころから素質は注目され、ジュニア世界戦にも出場した。プロになってからは追い込みで鳴らしたが、プライドも高かった。花月園記念の特選で6番車に入れられたことがあった。当時は6番車といったら今以上に力が下と言われたようなものだ。
 加藤は「冗談やない。なんでおれが6番車なんや、こんな競輪場では走られへん。欠場や」と言って、本当に当日欠場してしまった。賞金のいいころの花月園を欠場するのだから、加藤にとっては銭金の問題ではなかったようだ。プロに徹した言動だった。
 気の毒なのは三重の選手会の支部長になってから。四日市の誘導員出場拒否問題があり、このトラブルが原因で責任問題となり、体調を崩して早死にしてしまった。口調は乱暴だったが、結構筋の通ったことを言っていただけに、もっと選手会幹部として選手のためにやってほしかった。
 それから41期の佐久間重光まで目立った選手は出なかった。
 佐久間は昭和53年6月のデビュー。名古屋戦を3連勝、翌年2月には岐阜でA級戦を優勝。昭和54年には競輪祭新人王に出場。56年の高松宮杯では(1)(1)(2)(8)(9)と好成績を挙げ、昭和60年の競輪祭では(5)(1)(3)で優参、井上茂徳(佐賀)中野浩一(福岡)の3着にはいっている。先行よし、まくり鋭い…と三重を代表する選手だった。
 いまはA級に落ちているが人望が厚く選手会支部長の重責を担いながら平成6年までS級で頑張った。50歳の今もA級では追い込みで安定した成績を残している。
 弟子の中村光吉(60期)もS2、杉野哲也(76期)それに今売り出し中の浅井康太(90期)柴崎淳、俊光(ともに91期)の兄弟も先行で頑張っていて将来性は十分だ。浅井、柴崎兄弟が佐久間の指導で、中部の有力選手に仕上がっていくことは間違いないだろう。

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