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【戦国武将伊達政宗編】面子を潰されたら即座に残酷な報復で対応part1

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提供:週刊実話

 伊達政宗が当主になるとすぐに、臣従していた小浜城主・大内定綱が離反して、伊達氏と敵対する会津の蘆名(あしな)氏に寝返った。政宗は即座に軍勢を動かし、大内領へ侵攻。小浜城の防衛拠点である支城の小手森(おでもり)城を包囲した。裏切りには断固たる処置をとる。さすがに独眼竜と恐れられた男。若いながら戦国の掟をよく理解していた。いや、理解しすぎていたようだ。

 政宗は大軍で城を一気に攻め落とすのだが、このときに下した命令は「皆殺し」である。女子供を含めて、城内にいた約500人すべてを殺してしまう。「小手森城の撫で斬り」といわれた惨劇は、伊達氏の新当主・政宗の方針を明確に示していた。

 つまり、俺を舐めたらただではすまさない。それどころか、
「倍返しだ!」
 といったところだろう。近隣の弱小勢力を脅して臣従させる。武力を背景にした恐怖政治が、政宗のやり方だった。織田信長を畏敬していたというだけあって、そのやり方はよく似ている。

 一方、小手森城の惨劇に恐れをなした大内定綱は、戦意喪失して所領を捨てて逃走。二本松城主・畠山義継を頼って亡命していたのだが、政宗の倍返しはまだ終わらない。今度は二本松城を包囲して、義継を恫喝した。中立などという中途半端は許さない。臣従するか、逆らって滅ぼされるか。義継にはその二つの選択肢しか許されなかった。

 窮した義継は、政宗とは違ってお人好しで脇の甘い隠居の伊達輝宗のもとを訪問し、調停を願うがこれもうまくいかない。窮鼠猫を噛む。追い詰められた義継は、ここで輝宗を拉致。二本松城めざして逃走した。

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