都井は村の秀才少年だったが、肺病を患ったことで近所の住民から邪魔者扱いされていると思い込むようになった。徴兵検査も肺結核のため不合格となっており、都井の絶望感には拍車がかかっていた。また、都井は当時の農村に残る“夜這い”の風習を利用し、何人もの女性と関係していたとみられる。都井の遺書には、かつて関係しながら、病気などが原因で自分を冷たくあしらうようになった人妻などへの強い恨みが書き記されていた。
都井睦雄によるこの30人殺しの記録は、いまだ日本の犯罪史上おいて最凶最悪の殺戮事件となっている。
★ローカルルールという掟
「津山三十人殺し」の犯行の裏には、当時の農村社会では半ば公然の事実であった夜這いの風習が見えかくれしている。都井の遺書によれば、犯行日を同日にした理由のひとつは、自分と関係していながら他の男に嫁いだ女性が、弟の結婚式で村に戻ってきているからだった。また、金で関係した人妻の1人は、都井の動向が不穏なことに身の危険を感じ、一家で京都に逃げてしまっている。遺書に、その人妻が関係した男は自分が知っているだけで十指を越すこと、また集落の資産家の男が金にあかして「貝尾で彼とかんけいせぬものはほとんどいない」ことなどを書き記していた。
結核という病気によって周囲から白眼視されているという意識が、性的関係のもつれから生じた嫉妬や怨恨によって増幅され、殺意に結びついたことは想像に難くない。しかし、当時の村は「教化村」に指定されていたこともあり、夜這いの存在を公式的には否定している。事件後の供述で、京都に逃げた女性は都井と関係したことを認めているが、それは脅された結果の行為であり、けっして合意ではないと主張しているのだった。
都井による入念に計画された大量殺人は、一種の軍事行動に近いものがある。ローカル・ルールに戦時下の特殊な状況が重なった事件と見ることもできるかもしれない。
一方で「韓国57人殺し」という大事件を犯した禹範坤は、もともとはソウル市内の警察に勤務していた都会の警察官だったが、勤務態度が悪く、宜寧郡警察という田舎の警察署に左遷されてしまった。現地で恋をした女性と同棲していたものの、左遷の影響で結婚資金を貯めることができず、それゆえに彼女から毎日さげすまれるという鬱屈した日々を送っている。もちろん2人の不仲は村中の知れ渡るところとなり、「ソウルから左遷された男」「結婚できない男」「不仲の2人」という情けない噂が、村人たちの間でささやかれていた。身を粉にして働かなければ生きてはいけない慎ましく貧しい山村で、毎日、酒浸りとなっていた禹が馬鹿にされていたことは想像に難くない。
村のローカル・ルールになじめず、都会人としての自負もあった禹は、ついに自分を心の中であざ笑う村民たちの殲滅を決断したのだった。
日本と韓国の小さな農村社会で起きた大きな事件。それぞれ土着のローカル・ルールを解読しないことには、けっして事件の構造は見えてこないのである。
★短時間大量殺人の世界記録にも認定された驚愕の殺人鬼!!
1982年4月26日、韓国南部の慶尚南道宜寧郡で、村人57人がたった一人の男に次々に殺害される事件が発生した。犯人の禹範坤(当時27歳)は現役の警察官で、同棲していた女性に胸に止まったハエを叩かれたことから口論となり「あんた評判悪いよ」となじられて激昂、凶行に及んだのである。
禹は警察の武器庫に入り込んでウイスキーをガブ飲みし、泥酔状態となったまま武器庫からM2カービン銃2丁と実弾180発、手榴弾7発を持ち出した。まず警察署の隣にある電話局に押し入って、交換手3人をいきなり射殺、外部との連絡を取れないようにした。
その上で5つの集落を回る殺人行脚を開始し、まさしく手当たり次第、目に入る者は皆、片っ端からカービン銃で射殺し、さらには家に手榴弾を投げ込んで爆殺するなどしたのである。
禹は体力にあかせて8時間ほど殺戮を続けたが、ようやくやって来た武装警察隊によって山に追い込まれ、最終的に人質3人を抱きかかえたまま手榴弾を炸裂させ、爆死した。禹によるこの韓国57人殺しは、2011年に「ノルウェー連続テロ事件」が起きるまで、短時間における大量殺人記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されていた。