だが、義弘のような昔気質の武将は、恐怖で恫喝するのではなく「意地」を見せつけて、その面子を保とうとする。義弘の意地。それは、絶対に引かないということだった。どんな困難な局面でも、絶対に降伏しない。大軍相手にも徹底抗戦。そして、犠牲を払ってでも勝つ。
例えば元亀3年(1572年)に、日向の伊東氏との間で勃発した木崎原(きざきばる)合戦では、押し寄せる3000の大軍に、義弘はわずか300の寡兵で決戦を挑んだ。一歩も引かずに突撃する。
「俺が島津義弘だ。この首、獲れるものなら獲ってみやがれ!!」
兵力で圧倒的優位の敵勢は、この挑発に激怒して義弘を追いかけた。しかし、それは罠。各所に潜ませた伏兵が、敵軍の側面や後方から奇襲を仕掛け、隊列が伸び切った敵勢は大混乱に陥った。勝機を察知した義弘は、反転して敵本陣へ果敢な突撃を開始。寡兵の島津勢を相手に敵は総崩れとなり、大将・伊東加賀守は討ち取られてしまった。義弘は自らを危険な囮にすることで作戦の効果を高め、勝てるはずのない圧倒的不利な戦況を覆してしまった。これは、島津軍団のお家芸“釣り野伏せ”と呼ばれる伏兵戦術。日本一の負けず嫌い武将である義弘は、この戦術を最も得意としていた。
勝利のためなら、自分の命も平然と危険に晒す。そのやり方で、朝鮮征伐でも5〜8万といわれる明・朝鮮連合軍を、わずか7000の軍勢で撃破。「不敗の鬼」と、その名は大陸にも轟くことになる。