やがて、道三の専横が目に余るようになると、さすがの頼芸もこれを警戒して対立するようになった。
隣国の織田信秀や越前に追放され兄・政頼派の残党と結託して、「反・道三連合」を結成するのだが、道三の反応も素早い。邪魔する者は滅ぼすのみ。徹底した非情の方程式は、大恩あるはずの頼芸とて例外ではない。頼芸の態勢が整う前に、得意の奇襲でその居城である大桑城を攻め、頼芸を尾張へ追放して国を乗っ取ってしまった。
道三の他にも主君を滅ぼしたり、追放して国を奪ったりした者はいる。だが、さすがに理由もなく主君を攻撃するのは、いかに乱世とはいえ憚られた。
怜悧(り)な戦国武将でも、古い道徳観念の呪縛はそう簡単に解けるものではない。主君の乱心など理由をつけて自己を正当化するか、内密に暗殺するなどの手法をとるのが常である。しかし、道三の場合は堂々としており、
「先に殺らないと、こっちが殺られちまうじゃねぇか。理由もクソもあるか!!」
と、そんな感じだった。実際、頼芸は隣国の朝倉氏や織田氏から援軍を求める準備を進めていた。自分を正当化するため主君と戦う口実を画策している間に、四方から攻められていた可能性は多分にあった。
たとえ不忠者と後ろ指をさされようが、殺るに限る。仁義なき先制攻撃。それが勝利の要因だった。