なぜそこまでTwitterが流行ったのか? を考えると、その理由の一つに「既存のネット文化っぽくないから」という点が挙げられるかも知れません。
既存のネット文化というものは、難しい専門用語を使い、内輪だけに通じるクローズドな価値観を共有し、時にトラブったり、時にそこでしか得られない楽しみを見つけたり…といった、はるか昔にインターネット上で「掲示板」というものが出現した時代から続く、IT界の伝統文化みたいなものです。
インターネットの世界だけで通じるコミュニケーション方法、ともいえるでしょう。
Twitterのシステム自体にはそういったものが組み込まれてはいるのですが、実際に私なども利用していて思うのが、なんだかあっさりしている、ということです。
よく某巨大匿名掲示板群が「トイレの落書き」などと例えられていますが、たとえ落書きであっても、書いた後にこっそりとその場所に戻って反応を確かめたりして、結果的にはコミュニケーションとして成立する場合も多かったのに対し、 Twitterは本当に見直しもしない落書きレベルで、ポンポンと投稿できます。
それでいて、万が一自分の発言がトリガーになり、周囲のユーザーを刺激して大きな反響(または悪影響)を呼んだとしても、当の発言者が「反応を見る」という一歩踏み込んだ動作をしない限り、それに気づきません。
そして見ている側も、タイムライン(フォローしている人々の発言を時系列に並べたもの)がどんどん流れていくので、発言の風化が早いのです。
要するにTwitterは、簡単に使っている場合に限って、「絶対に荒れない」「絶対に炎上しない」システムなのです。これは、今までのITサービスの中ではなかなか無かったことだと思います。
ただ、だからといって落書きのようなライトな使い方しか存在しないわけではなく、反応(自分への返信)を見たり、「ふぁぼられ」(自分の発言が誰に気に入られたか)を見たり、フォロー/フォロワー数の統計をとって分析してみたり…、といったコアな使い方もできるので、既存のネット文化を好むユーザー達も納得の設計になっているわけです。
また、何かを表現する手段をすでに持っている人達が好んで使用する傾向にあるのも、このライトな感覚で使用できるシステムのおかげかも知れません。よく分からずに手を出したとしても、危なくないツールだということです。
一方で、「Twitterの何が面白いのか分からない」とおっしゃる方々も多いでしょう。
「面白そうだから参加する」という行為は、既存のネット文化が抱えていた一つのスタンスでもあります。
ですが、そもそもTwitterは、そのような既存の価値観で計れるものではないのかも知れないのです。
「あなたは何気ない落書きをするときに、その動機や魅力について深くを考えるでしょうか?」
Twitterの流行に対して疑問を持つ人には、そのように回答するのも一つの方法かも知れません。
(「ネット芸人」南部イチヒコ 山口敏太郎事務所)
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou