ところが年の瀬になってから、裁判所の執行吏一行がやって来て、早川金属工業研究所の差押えを宣告した。日本文具製造からの債務不履行の訴えによるものだ。執行吏に債務の返済済みであることを訴えたが、それを証明する書類の提出を要求され、徳次は当惑した。そんな書類はお互いに作成していなかった。信頼に基づく約束と徳次は考えていた。
昭和3(1928)年になり正月も過ぎると、徳次はさっそく欣々に優秀な弁護士を紹介してもらう。欣々は2年前に夫を病気で失った後、社交界からも身を引いて静かに暮らしていた。
紹介された大塚弁護士は、裁判が長引くであろうこと、弁護士の費用もかなりかかることなどを説明して、徳次の意志を確認した。徳次は日本文具製造の、人の誠意を踏みにじったやり方が許せなかったので、時間と費用がかかることは承知の上で訴訟に踏み切った。
昭和4(1929)年、不景気は悪化し、勤勉・倹約が国の方針として国民に奨励され始めた。そこに追打ちをかけて、この年の10月には大恐慌が全世界を襲った。そんな中にあって、早川金属工業研究所の業績は相変わらず順調だった。工場を増設する必要が生じ、それに伴って敷地内にあった徳次の自宅は、近くに移すことになった。
これを機会に徳次は欣々を大阪に呼び寄せた。夫を亡くして寂しく暮らす欣々が心配だった。