一方、同年には、第一次世界大戦中の大正7(1918)年に軍部の要求でつくられた軍需工業動員法が発動された。同法は、軍需品生産のためには、国は各種工場を調査および収用・使用することができることを定めた法律で、翌昭和13年には国家総動員法が制定される。
日本はいよいよ戦時色を強めていった。早川金属工業はラジオ・セットを一貫して製造したが、無線技術に対する国策に沿った要求もあった。太平洋戦争に突入した昭和16(1940)年、会社は陸軍航空本部監督工場に指定された。軍から監督官が配置され、機密保持のため工場の出入りは厳しくなった。
昭和17(1942)年に入ると資材入手が極端に困難になり、ラジオ生産も思うように進まない事態の中、社名を早川電機工業株式会社に変更し、同時に短波・超短波の技術研究所を設立した。7月に海軍から航空無線機の試作を要請されていた。数は30台。ラジオに比べ遥かに高度な技術が必要である。徳次は社の研究部と綿密に検討して引き受けた。納期は翌昭和18年1月10日だ。この5カ月間、研究部員は徹夜が何日も続いた。出来上がった無線機を2台、3台と少しずつ運び、ようやく納期までに30台を納品した。
しかし徳次はこの試作中に月産200台が可能という確信を持った。そして実現時期を同年12月として軍部に提出した。航空無線機の量産が求められていたのだ。
徳次の計画書を見た軍部派遣の監督官は「無線機がそんなに簡単に出来れば誰も苦労しない」と、相手にしなかった。徳次は得意の流れ作業による生産を考えていた。