それまで日活ロマンポルノ作品を多く手がけていた根岸吉太郎監督の作品ということで雰囲気はどことなく、当時よりやや昔の、哀愁漂うピンク映画っぽいのが本作の特徴だ。また、濡れ場の場面もおっぱいモロ出し、下半身も際どい部分まで映しているカットもあり、結構刺激の強い作品に仕上がっているだろう。
登場人物としては、主人公である和田満夫役の永島敏行の、地方トマト農家の青年感も印象的だが、それ以上に満夫のお見合い相手である、花村あや子役の石田えりの潔い脱ぎっぷりに目が行く。キャラとしてもかなり天真爛漫な性格で、満夫の家庭の事情的な悩みを関係なしに振り回す様子が、かなり魅力的だ。
さらに満夫の親友である中森広次(ジョニー大倉)は、かなり繊細なキャラなのだが、そのあたりの繊細さが、ジョニー演技でよく出ている。終盤、一緒に駆け落ちした人妻のカエデ(横山リエ)と、とある問題を起こして田舎に帰ってきた時の独白は、かなり後悔を持って語られており、この辺り、キャロルでの活動時に失踪した自分を重ねていたのだろうか?
同作はとにかく脇役の演技が魅力的だ。カエデの亭主役の蟹江敬三なども、登場時間が少ないにも関わらず、かなり歪んだ愛情を持った人物であることが、演技を通して伝わってくる。また、先祖代々の土地を売り払って、事業に失敗しまくる、どうしようもない満夫の父を演じるケーシー高峰も、登場するごとにダメ親父ぶりを発揮し、笑いを提供する。話の内容的には、地方のトマト農家の青年が、好き勝手やって迷惑をかけている父親や、嫁姑に苦しんで息子にグチる母親がおり、多少問題はあるにはあるにせよ、お見合いをして結婚するまでを描くという、当時はどこかにいたであろう地方の一青年の物語である。まあ、主人公の周りでは大きな問題が起こる時もあるが、それでも淡々とその日常を描いているだけなのだ。それなのに、観ていて面白いという気分にさせてくれるのは、個性的な脇役あってのものだろう。
主人公にインテリ感や真面目さを出していないのも、この作品の良い点だ。満夫と親友である広次の女を求める行動は、一応自分なりの幸せをつかむ者と、ドラマチックな愛を求めて破滅する者の対比になっているが、満夫もしっかり者という訳ではない。いい女を見れば一緒に寝てみたくもなるし、色々とワキが甘い。しかし、チンピラっぽい部分もあるが、大きくは外れていないという、半グレっぽい感じで、それが新興住宅地に飲み込まれる直前の地方という環境にかなり合っている。見合いの後、田舎でやることがないから、とりあえずモーテルに直行などの描写も、ありえそうといった具合に。
また満夫には、「実家のトマト農家を続けて行きたい」という気持ちがあるのみで、土地を捨てて都会へ移る意思を全く持っていない。ビニールハウスを駐車場にしないかと持ちかける業者を問答無用で追い出す部分にも、そのあたりが色濃くでている。正直言って映画というか、創作物として、このタイプの人間は非常に動かしづらい。結果的に多くの作品では、外圧によってこういった人物を動かすのだが、同作では、地上げ屋が強硬に嫌がらせをしてくる訳でもなく、地方再生志向の若者が集まり、なにかするわけでもない。諦めにも似た心境がありつつも、目の前の環境を受け入れて過ごしているのだ。これで一本の作品になってしまっているのが、ある意味凄い。
登場人物の、キャラ立ちと雰囲気だけで押し切る作品形式というと、最近でいう日常系アニメに近いのかもしれない。この作品も“セックス”と“暴力”は多少あるが、それでも主人公を通した“淡々”とした日常を綴ったものなので。作品のどこが良いかと聞かれると、「なんか空気感がいいんだよ」とか「なんかキャラの会話の雰囲気がいい」など、具体的にこれと良い部分を言い切れないことが多いのも似ているだろう。まあ、多少は主人公が成長する描写もあるので、根本的には違う気もするが…。
おそらく、当時はバブルの好景気が始まる直前ということもあり、今より都会に出なければならないという感情が、若者になかに渦巻いていただろう。その世相に反して様々な問題に悩まされつつも、田舎で淡々と日常を送る主人公の姿が、この作品での登場人物のたくましさを、代表して現している。そして、最後の満夫とあや子の結婚を祝うシーンは『わたしの青い鳥』を夫婦でデュエットするシーンで終わるが、ここで満夫が歌いながら号泣する場面は、立松和平著の原作とはまた違った意味で、閉塞感からの脱出や、満夫の時代がようやく到来したことを強調している。
(斎藤雅道=毎週土曜日に掲載)