最初に義光の毒牙にかかったのは、異母弟の義時である。好人物で、父の義守からも溺愛された。義守はやがて義光を廃嫡して、義時を後継にしようと画策していたというが、これは確たる証拠がない。義光の疑心暗鬼、あるいは、事あるごとに対立する父を疎ましく思い、葬り去るための口実だったのかもしれない。義光は家臣団を味方につけて義守を隠居に追い込んだが、それでも争いに終止符を打つことはできなかった。ついに、父や義弟を相手に戦う内乱が勃発。義光に攻められた義時は、自刃に追い込まれた。
邪魔な異母弟は粛清したが、義光の立場はまだ安泰ではない。領内には義光に従わない者も多い。時間をかけて説得するような、悠長なことはしていられない。伊達氏など近隣勢力に付け込まれる隙を与えないよう、てっとり早く抵抗勢力を黙らせる必要があった。このため天童氏、東根氏など先祖を同じにする一族をことごとく討伐。同族の血で塗り固めることで、政権基盤を安定させた。
それでも、正々堂々と合戦で雌雄を決するのなら「これも乱世のならい」と、討たれた側もまだ納得できたかもしれない。が、義光は暗殺や謀殺といった後ろ暗い手法も多用した。例えば、庄内領主の武藤義氏は家臣をそそのかして謀殺させ、谷地城主の白鳥長久は山形城内に招待して、寄ってたかって惨殺といった具合である。大量の兵や物資を動員する合戦は不経済であり、こういったやり方のほうがコスパフォーマンスに優れているのは間違いない。しかし、不名誉な批判に晒される覚悟が必要だ。それを平然と受け流す面の皮の厚さ、図太い神経もまた戦国武将に求められる資質である。
弱肉強食の乱世、きれい事だけで生き残ることはできない。義光はそれをよく知っていたようだ。悪口や批判を恐れずに、肉親や一族を卑怯な手口で次々に粛清し、勢力圏の拡大と安定を図った。そして、江戸幕府が成立したときには、57万石の大大名となっている。東北地方では伊達氏に次ぐ規模である。