長崎県出身の倉田は、地元で行われた視聴者参加型の歌謡番組に出場した際、スカウトマンにその実力を認められて高校1年のときに上京。1979年に『グラジュエイション』でデビューすると、日本レコード大賞新人賞を受賞するなど、順調なアイドル人生をスタートさせた。その後も、サードシングル『HOW! ワンダフル』が江崎グリコの人気商品、ポッキーのCMソングに起用されて大ヒットし、人気を不動のものにする。また、歌手以外にも、テレビドラマ出演や声優などの活動をマルチに行い、人気アイドルの一人に数えられていた。
しかし、80年代に入り、倉田は松田聖子などの新世代アイドルに押され、落ち目となっていく。そこへ降って湧いたのが85年の「投資ジャーナル事件」で、これにより倉田の芸能活動は完全に断たれてしまうのだ。
★折悪しく疑惑のツーショット写真が掲載され…
この「投資ジャーナル事件」とは、証券関連雑誌を発行していた投資ジャーナル社、およびその会長の中江滋樹が行った巨額の詐取事件である。中江は雑誌上で利用者から金を徴収して銘柄を紹介したほか、保証金を追加すれば預り金の10倍以上の融資を受けられるとした。しかし、実際は預かり証を渡すだけで株式の引き渡しは行われず、数百億円を詐取したとされている。この中で取り沙汰されたのが、中江と倉田の関係だ。
事件の渦中で、写真週刊誌『FRIDAY』が、中江に肩を抱かれている倉田とのツーショット写真を掲載。奇しくも、この時期に倉田が目黒区に7000万円ともいわれる豪邸を建てていた事実も相まって、マスコミは倉田が中江の愛人で、詐取された金がこの豪邸に流れているのではないかと追及したのだった。
この件について、倉田は完全に否定したものの、中江が自社の社員を金で口説いた逸話を掲載する週刊誌もあり、さも中江と倉田の関係は既成事実のように報じられた。これによって倉田は芸能界から身を引くことを余儀なくされたのだった。最終的に税務署の調査によって、倉田が豪邸の資金を借金で賄ったことを証明する借用書が見つかり、この疑惑は解消されたが、時すでに遅く、豪邸も税務署の差し押さえにより失うはめに…。
もともと、この中江と倉田の接近は、中江に出資させることで事務所からの独立を果たそうとしていたマネジャーが、自ら画策したものだったとされており、ある意味で倉田が芸能界引退に追い込まれたことは、こうした独立の動きへの制裁であったとの見方をする関係者も多い。後年、中江自身もこの疑惑について、4〜5回デートしただけで肉体関係はなかったことを週刊誌の取材で告白している。
倉田は芸能界引退後、法律事務所の秘書や資格試験予備校の執行役員などを務めた後に、キャリア・カウンセラーとして独立し、2015年には東京学芸大学の特命教授となっている。ある意味、キャリアの重要性を痛いほど知る倉田が、この職を選んだのは当然だったと言えるのかもしれない。