中止となった交流戦で最も結果を残しているのが、昨シーズンを含めて過去8回優勝しているソフトバンク。交流戦の存在もあり近年は5月を得意としているが、前身のダイエー時代には今では考えられない事件が起こった。
舞台となったのは、1996年5月9日に大阪・日生球場で行われた対近鉄3連戦の3戦目。同年のダイエーは、4月を終えて「7勝16敗」の最下位。5月に入ってからも調子が上がらないチームに不満を抱くファンも多く、同月7日に同球場で行われた3連戦1戦目の試合後にはファンが移動バスを取り囲む騒ぎが起きていた。
同戦にも「2-3」で敗れ4連敗を喫したダイエー。すると、試合終了直後に客席から発煙筒が投げ込まれ、激怒した一部ファンがグラウンドに乱入するなど球場は騒然となった。
また、1戦目の取り囲みを受けて停車場所を移動していたバスも先回りしたファンに取り囲まれていたため、選手たちは逃げるようにバスへ。すると、バスを取り囲んだファンの中の複数人が、選手やバスを目がけて生卵を投げ付けた。
当時ダイエーの指揮を執っていたのは、就任2年目の王貞治監督。王監督はその直後のミーティングで「ああいうファンこそ本物なんだ」、「将来優勝した時に、一番喜んでくれるのはああいう人たちなんだ」と選手に檄を飛ばしたが、バスに乗り込む際は怒りで体を震わせていたという。
選手が受けた衝撃も大きかったようで、当時主に4番を務めた小久保裕紀は2016年8月17日の『現代ビジネス』(講談社/電子版)のインタビュー内で、「あんなやつら人間じゃない」とファンに激怒していたと告白。また、当時外野のレギュラーだった村松有人は、2010年オフの引退会見で「日生球場で卵をぶつけられた時は、本当に悔しかった」と涙ながらに語っている。
この騒動に奮起したチームは6月に「13勝11敗」と勝ち越し一度は最下位を脱出するも、終盤に失速し「54勝74敗・勝率.422」で最下位に。この間も王監督に対する批判はすさまじく、客席には「頼むからヤメテくれ!王」、「王貞治 死んでお詫びしろ」といった辞任を求める横断幕もたびたび掲げられた。
しかし、同年のダイエーは小久保が2年連続で20本塁打をクリア(24本)し、村松が58盗塁で盗塁王を獲得するなど一部選手がブレーク。また、ドラフトでは井口資仁(当時の登録名は井口忠仁)、松中信彦、柴原洋と、後に主力となる野手3名の獲得に成功した。
その後、チームは1997年に4位、1998年に3位と着実に順位を上げ、1999年にダイエー時代では初となるパ・リーグ優勝を達成。その勢いのまま日本シリーズでも中日を下し、こちらも初となる日本一を果たしている。
同年を含めてチームは昨シーズンまでにリーグ優勝8回・日本一8回を記録するなど、球団名がソフトバンクに変わった現在も結果を残し続けている。ファンの怒りが渦巻いた“生卵事件”は、チームの転機になったのかもしれない。
文 / 柴田雅人