3月11日、宮城沖で襲った大地震。当時TBSが親会社であったベイスターズは、横浜スタジアムで東京ヤクルトスワローズ相手にオープン戦を戦っていた。14時46分に大きな揺れが起ると、警備の若い女性は叫び声を上げその場にへたり込み、照明塔の水銀ランプ同士が接触しガシャンガシャンと音を立てていた。未曾有の大震災は、仙台にある楽天イーグルスと、千葉のロッテマリーンズの本拠地を使用不能にし、3月25日に予定されていた開幕は、4月12日に変更された。
尾花高夫監督の2年目となったベイスターズは、横浜スタジアムで中日ドラゴンズを相手に開幕戦を行った。試合は難攻不落の浅尾拓也から、内藤雄太がセンターへサヨナラヒットを放ち、平日のデーゲームに集まったファンを歓喜の渦に巻き込んだ。勢いそのままにこのカード勝ち越しを果たし、「今年こそ」と淡い期待を持たせたが、それが長く続くことはなかった。
5月からは暗黒時代らしく低迷し、鬼門の交流戦は最下位を脱出するのがやっとの11位。オールスターまでに借金は19まで膨らんだ。後半戦も低空飛行を続け、10月9日には4年連続の最下位が決定。同18日には落合ドラゴンズに本拠地・横浜スタジアムで胴上げを見せつけられる屈辱も味わい、首位から27.5ゲーム差、5位カープにも11.5ゲーム差を付けられた。最終的には47勝86敗11分、勝率.353の成績だった。
前年オフにTBSから住生活グループ(現LIXILグループ)へ身売りが進められるも御破算になり、球団自体も揺れていた年。戦力面でも内川聖一がソフトバンク・ホークスにFA移籍し、2010年に活躍した下園辰哉が、くしくも3.11に右足を骨折し出遅れ、FAで獲得し、中華街で派手な入団外見を開いた森本稀哲は期待外れ。村田修一は前年に続き、144試合に4番としてフル出場したが、“飛ばないボール”の影響もありホームランは20本。前年途中から加入し19ホームランを放ったブレッド・ハーパーは大きく成績を落とし、ターメル・スレッジも怪我での離脱など、両助っ人の働きもイマイチだった。
投手陣は高崎健太郎が防御率3.45で177.1回を投げ抜くも、5勝15敗と勝ち星に恵まれず、三浦大輔も前半2軍落ちも経験し5勝に終わった。開幕を任された山本省吾と、前年10勝を挙げた清水直行はわずか2勝ずつ。震災の影響で日本に不安を感じたブレント・リーチは一度アメリカへ帰り、7月に再来日するも1勝7敗。低迷の理由はいくつも上がる散々たる状況だった。
このオフには現在の親会社であるDeNAに球団の譲渡が決定され、11年間で最下位8回と、目を覆いたくなるような戦績を残したTBS時代は幕を閉じた。野球界だけではなく日本中が混乱を極めた2011年。ベイスターズにとってもまた、ターニングポイントとなった年であった。
文 ・ 写真/ 萩原孝弘