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『ローカルプロレスラー図鑑』(2017年度版)なる個人発行の冊子を見ると、ここで取り上げられているのは国内24団体。おそらくは現在もなお同数程度のプロレス団体というか集団が、全国各地で活動しているものと思われる。こうしたローカル団体の先駆けとなったのが、みちのくプロレス(みちプロ)だ。
’93年、ザ・グレート・サスケによって旗揚げされたみちプロは、今では日本において新日本プロレスと全日本プロレスに次ぐ歴史ある団体となった。力道山が興した日本プロレスの活動期間は20年で、すでに同団体はこれを大きく超えているのだ。
近年の興行に関して、いきなり「宇宙大戦争」「ムーの太陽」などと言われたところで、何がなんだかさっぱり分からないという人も多かろうが、とにかく四半世紀以上も活動が続いているのだから、日本のプロレス史におけるサスケの功績は相当に大きい。
山本小鉄が開校していたプロレスラー養成所「新日本プロレス学校」での修業を経て、’90年にユニバーサル・プロレスリングでデビューしたサスケ(本名の村川政徳でデビューした後、MASAみちのくに改名)。メキシコ遠征時にマスクをかぶり、現在のザ・グレート・サスケとなった。
’92年、ユニバーサルの経営不振に伴ってみちプロの設立を宣言すると、翌年に旗揚げ戦を開催。当時はサスケをはじめ他の所属選手たちも、ほぼ無名の存在であった。
しかし、東北地方限定のルチャ系団体という物珍しさから、プロレス専門誌などのメディアで取り上げられる機会は多く、徐々に定着していくことになる。
「東北でも仙台などの大都市ではなく、地域の公民館のようなところを巡業し、プロレス自体に不慣れな人の多い田舎町に分かりやすいルチャを持ち込んだ。よりローカル色を強調してメジャーとの差異を際立たせたことが、結果的には見事な戦略となりました」(プロレスライター)
観衆100人程度の小規模興行でも採算が成り立つビジネスモデルを示したことは、他の団体からすると大いに参考となっただろう。
多くのファンに認知されるきっかけとなったのは、’94年に新日が主催した「第1回スーパーJカップ」であった。各団体から参加した8選手のトーナメントにおいて、サスケはエル・サムライと獣神サンダー・ライガーを破って決勝に進出。優勝はワイルド・ペガサスに譲ったものの、“東北にサスケあり”を強く印象付けることになった。
同大会では、みちプロでの好敵手であったスペル・デルフィンも、1回戦で新日所属の大谷晋二郎を下す殊勲の星を挙げており、同団体の存在感を一層強いものとした。
★“自爆ムーブ”で会場を沸かせる
これにより知名度を全国区としたみちプロは、以降は新日だけでなくWARやFMWとも交流し、東京で大会を開催するなど活動の幅を広げていった。
「それまでの団体対抗戦というと、相手をぶっ潰す的な殺伐とした空気になりがちでしたが、みちプロが画期的だったのは、どの団体とも融和的な交流をしたところ。東北密着型を打ち出していたため、興行ビジネスの面でバッティングしないという点が大きく、また、サスケ自身の交渉力も極めて優秀でした」(同)
レスラーとしてのサスケの特徴は、もちろん空中殺法による華麗さだけにとどまらない。時に無謀とも思える危険な飛び技は、ファンのみならずしばしば関係者をも驚かせた。
’96年、各団体代表による8冠統一トーナメントでは、見事に優勝を果たして初代ジュニア8冠王者となるが、決勝のウルティモ・ドラゴン戦で、場外に向けてコーナーポスト越しのトペ・コンヒーロを放った際に、その衝撃から頭蓋骨亀裂骨折と脳挫傷の大けがを負っている。
度重なる負傷のため一時は長期欠場を強いられ、エースであるサスケの不在により団体自体が活動休止を余儀なくされたこともあった。しかし、そんなサスケの捨て身の姿勢は、50歳をすぎた今も変わっていない。
さすがに若い頃のようなド派手な飛び技は控えるようになったが、代わって始めたのが“自爆技”で、ラダー(鉄製のハシゴ)に飛び技を誤爆するなど、さまざまな自爆ムーブが今や試合の目玉となっている。
なぜ、そこまでやるのかと疑問を持つかもしれないが、サスケがそこまでやるような人間だからこそ、新たなジャンルを開拓することができたと言えるだろう。
ザ・グレート・サスケ
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PROFILE●1969年7月18日生まれ。岩手県盛岡市出身。身長176㎝、体重88㎏。
得意技/トペ・コンヒーロ、ラ・ケブラーダ、サスケ・スペシャル。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)