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もともと熱心なプロレスファンだった邪道と外道。プロになるべくメジャー団体の入門テストに応募したが、特にスポーツ歴もなく、身体的にも際立ったものがない2人は、書類審査すら通らなかったという。
そんな彼らを受け入れたのがTPG(たけしプロレス軍団)で、1988年、2人はここで練習生として出会うことになる。
今ではイロモノと見られがちなTPGだが、当初は本格的に団体設立を目指しており、2人はアポロ菅原による指導のもと、都内道場でプロになるべく稽古を積むことになった。なお、のちのスペル・デルフィンも同じく練習生仲間であり、この3人とビッグバン・ベイダーが世に出るきっかけとなっただけでも、TPGの価値はあろう。
結局、TPGは両国国技館でファンの大反発を受けたことを主因として自然消滅。それでも邪道と外道は関係者の支援を得ながら稽古を続け、’89年3月にオランダでプロのリングを踏むことになる。
同年10月、FMWの旗揚げに参加した2人だが、’90年3月には新団体ユニバーサル・プロレスリングへ移籍。当時のリングネームは邪道、外道ではなく「クーリー“クラッシュ”SZ」と「ブルドッグ“パニッシュ”KT」で、この頃からタッグを組み始めるようになった(通称パニクラ)。
’92年にはリングネームを邪道、外道に改めてフリーに転向。2人そろってインディー団体を渡り歩くことになる。
「玉石混淆のインディーマットにあって、2人の動きのよさはこの頃から際立っていました。また、プロ意識も高かった。過激なデスマッチを売りにしていたW★INGのリングで、対戦相手の金村ゆきひろ(のちの金村キンタロー)が火だるまになったことがありました。並みの選手ならうろたえそうなアクシデントでしたが、2人はヒール然とした不敵な笑みを崩すことはありませんでした」(プロレスライター)
なお、このとき金村は実際に大やけどを負い、長期欠場を余儀なくされている。同じW★INGでは巨漢の双子タッグチーム、ザ・ヘッドハンターズとも連日のように対戦。体重150キロのムーンサルト・プレスを食らい続ける中で、大型選手への対処法や受け身のスキルなどのプロレス技術を高めていった。
邪道と外道の存在が広く知れ渡ったのは’94年4月、新日本プロレス主催で行われた「スーパーJカップ」に、当時はWARを主戦場としていた外道が折原昌夫の代役として出場し、巧みなテクニックを駆使しつつベスト4にまで進出したことによる。
翌年の同大会ではドス・カラスやワイルド・ペガサス(クリス・ベノア)といった強豪を退け、決勝こそは獣神サンダー・ライガーに敗れたが、その能力の高さを満天下に知らしめた。
★レスラー最下層からの逆転人生
90年代半ば、邪道と外道は冬木弘道とともに冬木軍を結成。再び参戦したFMWでは「ブリーフ・ブラザース」のようなコミカルなキャラを演じつつ、’98年には全日本プロレスに参戦してジャイアント馬場とも対戦している。
「馬場、新崎人生、丸藤正道vs金丸義信、邪道、外道の6人タッグでは、馬場にフルネルソンを極められた外道が、後ろ足で馬場の股間を蹴り上げようとしたところ、股間まで足が届かないという一種の名場面もありました」(同)
なお、この試合後には、馬場のほうから邪道と外道に握手を求めるという異例の一幕があった。それほどまでに馬場は、この2人のセンスを認めていたわけである。
’01年には蝶野正洋率いるTEAM2000のメンバーとなって、新日に本格参戦。ライガー&エル・サムライ組を破ってIWGPジュニアヘビー級タッグ王座を獲得した。TPGの練習生というレスラー最下層から、ついにメジャーのトップに上り詰めたのである。
「それにとどまらず、今では外道が新日のヘッドブッカー、邪道もトレーナーを務めているというのだから、この2人が新日をほぼ掌握しているようなもの。これほどの成り上がりは世界中のプロレス界にも例がないでしょう」(同)
初めてタッグを組んでからおよそ30年、ごくわずかな対立アングルの時期を除いて、邪道と外道はずっと2人で歩んできた。
’07年にはWWEから外道単独でのオファーを受けながら、邪道との関係を上にみてこれを断ったという。2人の絆はまさに、外道がオカダ・カズチカのマネジャー役をしていたときの決めゼリフのごとく、「レヴェルがちげぇーんだよ!」なのである。
邪道&外道
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PROFILE●邪道/1968年9月28日生まれ。東京都港区出身。身長178㎝、体重99㎏。
外道/1969年2月20日生まれ。東京都武蔵村山市出身。身長172㎝、86㎏。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)