徳次は後年、熊八のこの時の心境を“当時の出野は貧乏で、行かせてやろうにもちょっとした外出着の用意もない。養父は行かせたかっただろうし、気の毒にも思っただろうが、自分の状態に肩身の狭い思いをしながら断ったのだろう”と想像している。
明治39(1900)年の春、市立筒井尋常小学校1年生になった。毎日、包みを持って通う。学校にいるとまるで別世界のように楽しく、人並みに初めて自由に呼吸をし、伸び伸びと振る舞うことができた。
徳次にとって学校で過ごす時間は何物にも代えがたいものであった。義母を恐れてびくびくする必要もなく、同じ年頃の子供たちと遊ぶこともできた。文字を覚え、数を習うことも嬉(うれ)しくて仕方がなかった。
家に帰れば、うず高く積まれたマッチ箱貼(は)りが待っていた。ずっと座って作業を続けたまま夜になる。薄暗いランプの下で仕事を続けて、夜中の12時になっても義母は寝ていいとは言わない。やがて1時になる。弟妹たちはもちろん、熊八だってとっくに眠っている。徳次もだんだん睡魔に襲われ、マッチ箱を取り落とすようになる。
結局、寝るのはいつも、徳次がどうにも眠くて起きていられなくなった時だった。それも義母に口汚く罵(ののし)られながら寝床に倒れ込むのだ。もっとも義母はたいてい先に寝ていた。こんな調子で、徳次は朝の早い牛乳屋の音を耳にする日さえあった。
日本人にとって牛乳が一般的になったのも明治維新後のことだ。明治政府は維新で失職した武士の失業対策の一つに畜産を奨励し、東京にも各所に牧場ができた。当初は大きなブリキ缶によって配達する量(はか)り売りだった。ビン入りになったのは明治20(1887)年以降。徳次が早朝に聞いたのはビンが触れあうカチャカチャという音だっただろう。