仕事を何とか一段落させて、何度目かの引き継ぎも終え、出発の日を迎えた。
9月1日、その日は朝から異様に蒸し暑い日だった。空はどんよりと曇り、風ひとつない。午前11時、徳次は家を出た。文子と煕治、克己が門まで見送った。
生まれて初めての保養に一人で出かけるのを躊躇(ためら)う徳次に、巻島も2、3日付き合おうと約束してくれた。そこで、町内の巻島の家に寄った。上野には午後2時迄(まで)に到着すれば、列車には充分間に合う。
巻島の家でしばらく話をして、出発の前に散髪してこよう、と言った。時計は11時58分を指していた。その途端、徳次は座敷の片隅まで一気に跳ね飛ばされた。それからは、まるで大波に揺りあげられるような震動。言葉で言い表すことのできないような音響が辺りを包むように響いている。
障子がバタバタと倒れ、砂埃が渦を巻いて入ってきた。外からは人の叫び声がする。畳全体が波打つ。電灯の笠が落ちて大きい音を立てた。部屋の壁が落ち始めた。やっと這うようにして店まで出たが、徳次も巻島もすっかり気が動転していた。
「巻島さん、旅行どころではない。私は帰ります」。徳次は傍にあった座布団を被(かぶ)り外に飛び出した。
外に出て目にしたのは倒壊した家屋の数々、往来には悲鳴を上げ逃げまどう人々、倒れている怪我人、それらがもうもうとした土埃に包まれている。
1時間前に通った時とは姿が一変してしまった街。地面は一瞬も止まることなく上下している。巻島宅と徳次宅は目と鼻の先、200メートルほどの距離だったが、家まで帰るのがやっとだった。