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目黒競馬場の歴史(5) 第1回ダービーの舞台裏

 「緑濃き葉桜の下に19頭の馬と、ユニフォーム華々しい騎手がズラリと並んでおります。見渡したところ、日本全国の名馬が競い、19頭いずれが先頭を争うか、距離は2400m。ちょうどこの馬場から見まして半哩(約800m)前方にただいま並んでおります。いよいよスタートです」
 昭和7(1932)年の記念すべき「第1回東京優駿大競走」(現日本ダービー)は、東京中央放送局(現在のNHK)が、その様子をラジオで全国に伝えた。
 馬券は、1レースにつき1人1枚に限られていた。サラリーマンの月給は60-70円の時代のことである。
 レースは19頭立て。芝2400mで行われ、雨の中を函館孫作(はこだて・まごさく)騎手が騎乗した1番人気のワカタカ(牡、父・トウルヌソル、母・種信=中山・東原玉造厩舎)が2分45秒2(不良)のタイムで優勝した。ちなみに単勝式の払い戻しは39円だった。
 現在でも残る目黒競馬場跡記念碑はダービー馬ワカタカではなく、父のトウルヌソルだ。ダービー発祥の地だけに第1回のダービー馬をはじめ、計6頭ものダービー馬の父親となったトウルヌソルに敬意を払ったものと思いきや、記念碑建立に携わった当時の関係者の話では「像をつくるときに、どうしてもダービー馬ワカタカ号の写真が手に入らなかった」というエピソードが残っている。

 ダービーが始まったちょうどそのころ、東京市の人口は年々増え、近郊農村の宅地化が進んでいた。また、大正12(1923)年、関東大震災に見舞われた影響で、人口のドーナツ化現象に拍車がかかり、東京の職住分離をもたらした。
 東京市は、昭和7(1932)年、三多摩以外の5郡82町村を編入、計35区となり米ニューヨークに次ぐ世界2位の大都市へと成長した。
 ※参考文献=目黒区50年史/月刊めぐろ(80年5月号)/みどりの散歩道

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