そこに出演していた朝吹真理子さんが、1月17日に第144回芥川賞を受賞されたのとのことで、おめでとうございます。なお、受賞作『きことわ』は、サイファーでの朗読が初公開だったとか。
そもそも詩人の佐藤雄一さんがサイファーを企画したきっかけは「朗読会とかやりたいんだけどなあ」とぼやいていたら「ウダウダ言うくらいなら、さっさとやりやがれ」とばかりに強い語調で朝吹さんにけしかけられてのことだったそうである。
佐藤さんは「あらゆるものが詩であり、誰もが詩人になれる」といった。その言葉通り、彼の二度目の即興朗読が始まるや否や代々木公園の警備員が割り込んできて「これは許可を取ってるのか。代表者は誰だ?」と訊いてきて、代表者である佐藤さんが名前と連絡先を警備員に伝える。
「念のため訊くけど、これは宗教の集まりとかじゃないよね?」「違います。僕らは何も信じてません」と誰かが答えた。そんなハプニングに見舞われた後に朗読を再開することになった佐藤さんは「僕の詩は以上です」と宣言した。つまり警備員とのやりとりそれ自体が即興詩であると。そして「これで警備員さんも詩人になった」と。
「あらゆるものはニュースなんじゃないか?」この記事を書きながら「あらゆるものは詩」なのだろうかと考えてみて、こんな答えが導き出された。佐藤さんは詩人だから「それ」を詩と呼ぶけれど、今こうしてニュース記事を書いている僕は「それ」をニュースと呼ぶしかない。そして「それ」は同じことなんじゃないのか。
テレビ朝日系列『ミュージックステーション』などの音楽番組では、シンガーソングライターもバンドマンもアイドルも皆ひっくるめて「アーティスト」と呼ぶ。アーティストすなわち「アートする人」であるが、アート=詩と考えることもできる。アートもしくは詩における表現は、僕らが知っているものであろうとなかろうと、常に新しいものとして僕らの前に提示されるものという意味では、ニュースでもある。
どんなに古い出来事であろうとも、初めて知る情報にはニュース性が宿っている。逆に新鮮な話題だからと言って全ての人にとってそれが新しい情報とは限らない。事件の関係者にとってそれは既に起きてしまったことに過ぎないからだ。だからニュース性に時間は関係ないとも言える。
特にネットで見る場合、それは時間差で伝わったりもする。この記事が読まれるのも公開直後だけとは限らない。1か月後かもしれないし、1年後、10年後、100年後になる可能性だってある。その時、ここに書かれたことを初めて知るものにとってそれは間違いなくニュースなのである。
サイファー終了後に雨が降り出した。雨には詩の成分が含まれているし、気象情報はニュースの必須コンテンツでもある。空もまた詩人であり、お騒がせセレブに他ならない。昨年の漢字検定協会主催「今年の漢字」1位は「暑」に決定した。「暑さ」も自然が織りなす風物詩という意味では、詩でありニュースなのだ。(工藤伸一)