これに伴い、各倶楽部の協議機関であった帝国競馬協会も競馬会に事務を引き継いで解散する。この組織改編は、戦時体制づくりのための各界、各部門の統制組織化の一環であり、競馬運営を政府の直接監督下に置こうというものであった。
競馬法も同年9月に全面改正され、翌1937(昭和12)年、各倶楽部は相次いで解散してゆく。ところが根岸の日本レース倶楽部の解散をめぐっては、その資産処理について、同倶楽部と農林省が対立し、もめにもめた。
というのは、日本レース倶楽部の先進的な歴史と、長い間の実績、蓄積は後発の他の競馬倶楽部とは違っていたからである。 同倶楽部はもともと居留外国人が中心になって構成し、運営してきた。早くから独自の馬券を発売し、馬券禁止時代にあっても、他の倶楽部のように、設備に対する政府補助を受けず、独力で競馬を開催してきた。
明治末には、馬場内部の土地をゴルフ場として買収、昭和に入ってからは馬場などこれまで政府から借りていた国有地も払い下げを受けている。
日本競馬会が日本レース倶楽部を合併吸収することになった当時、同倶楽部所有の財産は、約10万坪の土地120万円、スタンドなどの建物が280万円、その他併せて総額570万円程度にのぼったといわれている。
※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬