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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(15)

 前回は馬券の発売禁止から、それが公に認められる新法、競馬法が施行されるまでを記した。
 この競馬法の制定により、根岸の日本レース倶楽部をはじめ、東京、京都、阪神、札幌、函館、福島、新潟、中山、小倉、宮崎の11倶楽部が競馬開催団体として認められ、農商務省監督の下に馬券発売のできる「公認競馬」が新たにスタートすることになった。
 そして、前記11倶楽部は従来の社団法人競馬会協会を1923(大正12)年8月、帝国競馬協会に改め、新発足する。「公認競馬」の要点は、(1)開催4日以内(2)券面5円〜20円の勝馬投票券で1人1競走1枚限り(3)払戻金は10倍までと大枠がはめられていた。

 新しい「公認競馬」は同年、秋季開催から実施されるが、同年5月の春季競馬には時の摂政宮(のちの昭和天皇)が根岸に来られている。そして、この年の9月1日、首都圏は関東大震災に見舞われるのであった。
 根岸競馬場は馬場に亀裂が生じ、スタンドも壊れた。競馬場内は付近住民の避難所となった。会員の外国人の中にも3人の死者があった。
 明けて1924(大正13)年1月、帝国競馬協会によるその年の競馬開催日程が決まった。春が5月に3日間、秋が11月に4日間であった。根岸競馬は1シーズン休んだだけで、大震災の痛手にも負けず、翌年春から馬券復活の新競馬法の下で再開された。ただし、スタンドは急造のバラック建てであった。
 大正から昭和を迎え、横浜の震災復興の槌音も次第に高く響き始める。根岸競馬の馬場を中心とする国有地は1928(昭和3)年、改めて日本レース倶楽部に払い下げられる。これまでの間、根岸競馬場は借地料として、初めは年額750円、1915(大正4)年からは敷地拡張に伴い989円が倶楽部から政府に支払われていた。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

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