明治28(1895)年10月、満2歳になる1カ月前、徳次は日本橋久松町の早川家から、深川東大工町(現・江東区白河1、2丁目付近)に住む出野熊八夫妻に養子に出された。
江戸時代から庶民の間での養子縁組は、証文のやり取りで比較的簡単に行われていた。武家における養子が家名の存続のためだったのに対し、庶民間では家業を継続するためというものも多かった。明治に入ると家制度を重視する考え方が政策として各階層に広められたことから、家を維持するためという側面が強くなった。
熊八夫妻は当初、早川家から依頼されて徳次を預かっていたに過ぎなかったが、一緒に過ごすうちに情が移った。それに熊八夫妻には子供がなかった。当時、すでに30歳を超えていた熊八には、幼いながらいかにも利発な徳次に出野家を継がせたいという願いがあったようだ。
熊八は“腸樽(わただる)人足”だった。肥料になる魚の臓物を荷車で集めて回り、それを肥料商に売るのだ。熊八の妻は、縫製業を営む早川家でミシンの縫い子として働いていた。熊八は善良な人物だったが、元々少ない稼ぎのほとんどを酒に使ってしまい、家計は妻の労金で賄(まかな)われていた。
熊八夫妻は徳次を可愛がって育てていたが、徳次を養子に迎えて2年後の明治30(1897)年秋、養母が急病であっけなく他界する。妻に先立たれた熊八は、まだ4歳の徳次を背負って腸樽の荷車を引いたこともあった。いつも酒臭い、優しい熊八と2人の生活は楽しかった。
ところがある日、兄の窮状を見かねた熊八の妹ヒサが、長屋裏の機屋(はたや)で働いていた十代の織り子を熊八の後妻として連れてきた。