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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(6)

 今回は前回と平行して横浜レース倶楽部と横浜レースアソシエーションの対立について違った角度から見ていきたい。
 日本人の入会を認めず、中国産馬重点のレースを編成する横浜レース倶楽部に対し、横浜レースアソシエーションは日本の役人の特別入会を認め、日本在来馬を中心にレースが組まれた。
 このアソシエーション競馬には、1876(明治9)年11月18日の第1回から、宮内省御厩課が騎手を参加させている。翌1877(明治10)年秋には、大隈重信、松方正義らが顔を見せた。
 対して、レース倶楽部が主催する競馬に足を運んだのは、東伏見宮や高崎成風らの侍従(じじゅう)で、明治新政府の競馬への関心ぶりを示しているといえるだろう。しかし、根岸での複数の競馬団体の並立は、しょせんは無理な話であった。
 1878(明治11)年早々には、新たに「横浜ジョッキー倶楽部」が結成される。当初の会員数は130人余だったが、日本人の加入も認められ、レースも日本の在来馬に中国産馬を配する編成とされた。これらの“門戸開放”により、開催の2、3日目には日本の海軍軍楽隊が演奏を行っている。ところが、このジョッキー倶楽部も滑り出しほどにはうまくゆかず、会員減と財政難から2年ほどで行き詰まってしまう。

 そこで「日本レーシングクラブ」が、1880(明治13)年4月に設立されることとなる。同クラブは、政府から競馬の権利を借り、以後、長きに渡り、根岸競馬を開催してゆくこととなる。
 この年、6〜9月の日本レーシングクラブによる初開催の根岸競馬は、明治天皇から金銀銅象眼鋼製花瓶が1対贈られた。また、現在の天皇賞の先触れともいえる天皇花瓶競走が創設され、宮内庁から800ドルの寄付も行われた。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

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