独立資金は巻島に借りた40円と、芳松が「これだけは」と返してくれた5円、それにわずかな貯金を合わせて50円足らず。現代にしても15万円ほどだ。白米10キロが2円弱だった時代だが、この内訳は徳次のメモで知ることができる。
家賃1カ月分3円30銭、敷金6円、畳4枚4円80銭、古障子4枚4円、布団3円50銭、ビール箱2つ10銭、茶わん・小鉢類1円50銭、米7升2合1円、みそ・しょうゆ50銭、雑費20銭で合計24円90銭、残りは店の材料・設備費で、50円はほとんどなくなった。6畳間だったが、畳は4畳分だけ敷いて2畳分は板のままで我慢した。ビール箱は1つは戸棚の代用、もう1つは机や食卓として使った。徳次は仕事道具や身の周りの品は大八車を借りて自分で引いて運んだ。借賃は1日4銭。徳次は半日分2銭を払って借りた。畳や障子を自分で用意しているところに時代を感じる。
土間が作業場に当てられた。徳次は坂田の店にいたころから考えていた工夫を作業場に実行した。まず小道具などをひと目で位置がわかり、使い良い順番に並べた。そして作業も早く楽に正確にできるように研究した。すべて能率を上げるためである。これは徳次が生涯を通じて事業上のモットーとするところで、後のコンベア・システムも、根本はここにあった。
大正2(1913)年、独立して初めての正月もほとんど休むことなく働いた。1月3日には、いつものように朝4時半に起き、暗いうちから灯の下で作業を開始。一日の経費は朝食前までに稼ぎだすというのが徳次の方針だ。