金や銀のメッキ製は主に国内に売れ、輸出はニッケル製がほとんどだった。価格は金7円、銀3円、ニッケル1円。ほかに時計付き、ライター付き、純14金製の高級品と、各種のシャープペンシルを考案し、販売した。そして当時としては非常に珍しい、コンベアによる流れ作業も導入した。
1年もしないうちに新工場では足りなくなり、大正9(1920)年に押上分工場を増設。さらに翌大正10年、本所林町から2、3キロ東に当たる亀戸に250坪の土地を購入した。第3工場建設用地だ。
亀戸の土地にあった長屋は従業員の住居に使用した。5軒あった長屋のうちの1軒に熊八一家を住ませ、熊八に管理人の役を与えた。
大正12(1923)年には従業員総数200人、工場は300坪に拡張、売上金は月額5万円になり、従業員の賞与は半期に10カ月分ずつ出した。
徳次たちの事業がこのように盛運にあったとき、金属製繰出鉛筆が各問屋から見向きもされなかった当初、唯一好意的に買い上げてくれた浅草橋の石井氏の店が破産したという知らせが入った。徳次は石井氏の当初の好意を恩義に感じ、売掛金130円ほどを棒引きにした。そして50円の見舞金を携えて石井氏が入院している蔵前の明治病院を訪ねた。