昭和37(1962)年、創立50周年のこの年の9月15日、徳次が総建築費1億円を個人として寄付した早川福祉会館が、早川電機工業付近の南田辺に完成した。点字・録音図書室のある会館だ。
ここに昭和40年、大阪盲人将棋クラブが結成された。徳次は2ミリのアルミ板を金型で打ち抜いて81のマスを作り、それを普通の将棋盤と同じ大きさの板に釘で張り付けた“盲人用将棋盤”を作製して贈った。十四世木村名人が“不動盤”と名付けた。この将棋盤を、徳次は盲人の団体が入用の時にいつでも寄贈できるように用意していた。
昭和37年には、50周年を記念して物故社員の供養塔を高野山に建立した。これまでの50年間、会社の経営に参加してきた全ての人々に感謝の意を表したものだ。以来、毎年8月には徳次も供養会に参列した。
徳次は様々な福祉活動をしたが、常に“少しでも多くの人に喜びを分けようとする根本的な心”があった。それは事業に関しても同様で、奉仕の心、分ける心のない経営者には永続的な事業の繁栄はないというのが徳次の考えだった。
そして“奉仕は無理をして自分自身が苦痛を感じるようではいけない。自分が人に分けてあげられるということを幸せに感じることができて、初めて奉仕が生きてくるものだ”と折にふれて語った。
昭和39(1964)年、10月10日から東京オリンピックが開催されるこの年の3月、早川電機工業は世界で初のオールトランジスタダイオードによる電子式卓上計算機を発売した。重さ25キログラムもあり、大卒公務員の初任給が2万円に届かない時代に53万円超という高値だったため、国内では売れなかったが、海外からの注文が入った。翌昭和40年に重さ16キログラム、価格50万円を下回る改良2号機を発売すると、爆発的に売れ、他社が電卓市場に参入してきた。