例えばコテの金具にニッケル鍍金(ときん)を施して塗の柄に入れ、「不思議なコテ」と名付けて発売した。従来のコテはすぐ錆(さび)がきて、使用前にいちいち錆を落とす必要があったので、改良して錆びない工夫をしたのだ。兄・政治が販売を担当し、目新しさも手伝ってよく売れた。
政治からの依頼で液体ハンダを製造したこともある。当時、アメリカから輸入していたチノールという液体ハンダが高価だったため、現品を分析して模倣品「和製チノール」というのを作ったのだ。廉価なので売れたが、これはしばらくするとハンダに錆ができてしまう欠点があった。徳次は失敗の考案と言っている。
政治と徳次は気が合った。政治はいっとき、林町の徳次の家に同居したこともあった。二葉屋自転車から独立して友人と2人、銀座に自転車のタイヤ修理店を出したが、まだ自転車が行き渡らないころだったので失敗し、以後は雑貨の外交販売で地方を営業して回った。
政治の扱う雑貨の中に金属文具があった。まだ初期のことで工夫すれば改良の余地のある物が多かった。徳次は万年筆の付属金具のクリップや金輪に新味を加えて製造してみた。これも本格的に製造を開始できるほどの注文が入った。
徳次はさらに新製品の研究を続ける。大正3(1914)年、まだ家内工業の域を出なかったが、徳次の仕事場は活気に満ちていた。仕事は順調に発展していた。
巻島が徳次に、そろそろ身を固めたらどうだと縁談を持って来たのはこのころだ。徳次は20歳になっていた。当時は、縁談は親や周囲の年長者が進めるのが普通だったから、徳次は巻島にすべて任せた。
大正3年3月、徳次は巻島と同業の清水政吉の長女・文子と結婚。同年12月には長男・煕治(ひろじ)が生まれた。