「おめぇ、深みに落っこちてみなー。今のようじゃ済まねえよ。死んじゃうんだから。これからは金輪際(こんりんざい)やるんじゃねエ」
この時以来、この遊びを徳次は二度とやらなかった。
熊八は後妻が徳次を虐待していることに気付くような、細かい心遣いのできる人間ではなかった。ただ、徳次の短かった子供時代に、父親としての熊八を感じさせるこの思い出を徳次はずっと大切にしていた。
熊八一家は、小名木(おなぎ)川に近い長屋に住んでいた。長屋は当時としても一般的な都市住宅だが、電気、水道はもちろんなく、井戸や台所、便所も共同だった。
小名木川は旧中川と隅田川を結ぶ運河で、古くから千葉・行徳から運び入れる塩を始め、東北や関東各地から諸物資を江戸の中心部に送り込む重要な水路であった。一帯はもともと低湿地帯のため、大雨が続くと、よく洪水に見舞われた。
近所に盲目の井上せいという祈祷師がいて、いつも白い紋服(もんぷく)を着て祈祷に出かけていた。
徳次に出会うと彼女は「お前さんは気の毒な子だよ。せっかく幸せに暮らせるものを…苦労しなさる」と意味ありげなことを言う。徳次はその言葉の意味を躍起になって尋(たず)ねたが「今にわかります。それまで辛抱しなされよ」と首を振って、どうしてもそれ以上のことは教えてくれなかった。
徳次には夢のようなうろ覚えの記憶があった。4、5歳の頃のこと。ある日、美しい女の人が長屋の前に来て徳次を呼び、何かをくれた。貰(もら)った物が何であったかは忘れたが、ただその女の人が美しく、いい匂いがしたことだけが記憶に残った。