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1985年にUWF軍の一員として新日本プロレスへ参戦した際、元タイガージムインストラクターの経歴が強調されたこともあって、山崎一夫を格闘系からの転向レスラーと思っているファンがいるかもしれない。ちなみに、キック用のスネ当て(レガース)を初めて試合で使用したのも、この山崎であった(師匠格の佐山聡とともに第一次UWFへ参戦したとき使ったもので、同じ日に佐山も使用しているが、試合順で山崎が最初)。
しかしながら、山崎は中学生の頃からプロレスラー志望で、新日の道場で練習生としてトレーニングを積み、高校を卒業してすぐの’81年に正式入門を果たした、れっきとした新日系のレスラーである。
新弟子時代に佐山の付き人となり、佐山が退団後にジムを立ち上げると、これに同調して山崎も新日を退団した。
その後、佐山が第一次UWFを離れる際には、もともとがプロレスラー志望であったことから、佐山の理解を得た上でUWFに残留。前田日明が長州力蹴撃事件で新日から謹慎処分を受けると、髙田延彦とともに独立を進言したというから、第二次UWF旗揚げの陰の立役者でもある。
山崎といえば“いい人”と連想するファンは多い。これは当時、長州が敵対関係にあったUWFインターナショナルの面々に対して、「あいつらが死んだら俺が墓に糞をぶっかけてやる」と罵倒した後に、「でも、山崎はいいやつだから」と続けたことに由来するところが大きい。
「第二次UWFが分裂した際、山崎はUインターを選んだ理由について『人数が多かったから』と語っていますが、その真意としては“Uの再結集”があったと思われます。個性の強いレスラーたちの中にあって、自ら調整役を買って出る。そのあたりも“いい人”と呼ばれるゆえんでしょう」(プロレスライター)
だが、そうした人のよさは、往々にして都合のいい人として周囲に利用されることにもなる。第二次UWFでは三強、いわゆる“前髙山”の一角とされた山崎だが、Uインターでは露骨に“かませ犬”役を担わされている。
「スーパー・ベイダー(ビッグバン・ベイダー)や北尾光司らビッグネームが参戦したときには、まず山崎が闘い、敗れたところで髙田が満を持して対戦するというのが定番の流れでした。また、大物を招聘できなかったときには髙田の対戦相手も務め、ファンからは『困ったときの山ちゃん頼み』などと言われたりもしました」(同)
Uインターが髙田を一枚看板としていた以上、山崎が勝利することは興行的な意味からしても許されない。
「北尾戦などは、山崎の持ち味であるキックの速射砲に北尾がまったく対応できず、試合前半は山崎が一方的に蹴り続けるという展開でした。最終的には北尾の力任せの攻撃に屈する形となりましたが、その気になれば絶対に勝てた試合だったと思いますよ」(同)
★北尾を圧倒したキックの速射砲
プロフィール上で、身長、体重をかさ増し申告するレスラーは多いが、おそらく山崎の身長184センチというのは実寸に近い数字なのだろう。北尾と対峙したときも体重差こそ約50キロほどあったが、身長では決して見劣りしていなかった。だが、人気と知名度がある髙田で商売していこうと考えていた面々からすると、山崎の勝利には価値がなかった。
Uインター移籍後、約6年間にわたってそのような扱いが続いたことで、山崎は「レスラー生活があと何年続くか分からないのに、こんなことをしている場合か」との思いから、古巣である新日へフリーの立場で復帰することになる。
最初の試合は、平成維震軍興行での後藤達俊戦。敵役としての登場であったが、当日は後藤以上にファンからの声援を受けている。
「当時、新日の敵と見なされていたUインターを離脱したことで、山崎に対しては“敵の敵は味方”という意識がファンの間にあったのでしょう」(同)
その後はトップ獲りまでには至らなかったものの、タッグマッチ3本勝負の2本目でアントニオ猪木からフォールを奪ったり(’95年12月30日)、第8回G1クライマックス(’98年)で準優勝したり(優勝は橋本真也)、随所で見せ場をつくっている。
体調不良により引退を決意した山崎だが、’00年1・4東京ドームで行われた永田裕志とのラストマッチには、第二次UWF解散後、犬猿の仲とも噂された前田と髙田が久々に顔をそろえている。そんなところもまた、山崎の人のよさの表れと言えそうだ。
山崎一夫
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PROFILE●1962年8月15日生まれ。東京都港区出身。身長184㎝、体重105㎏。
得意技/各種キック攻撃、膝固め、ジャーマン・スープレックス・ホールド。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)