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1994年の全日本女子プロレスの東京ドーム大会において、当時16歳の浜口京子がアマレスのエキシビションマッチを行った。
父であるアニマル浜口の指導の下で、ボディビルからレスリングへ転向して2年目のこと。京子自身は父の影響もあって、女子プロレスラーを志望していたとも言われ、また京子を招聘した全女としても、将来のエース候補としてぜひとも欲しい人材であった。
「まだ女子プロレスの景気がよかった頃で、京子に対して数千万の契約金を提示したとも噂されました。一方、女子のアマレスが五輪の正式競技となったのは’04年のアテネからで、だったらプロ入りとなっても不思議ではなかった。にもかかわらず、そうしなかったのは浜口の強い意思によるものだったそうです」(プロレスライター)
要は“大事な娘をプロレス業界などに入れるわけにはいかない”ということである。
「昔の女子レスラーは男子レスラーや関係者から、慰み者にされることも少なくなかったですからね。娘をプロ入りさせなかったことで『さすが浜口さんは常識人だ』と、逆に評価を上げることになりました。自身が’87年に40歳で引退したのも、ジャパンプロレス=長州力が新日と全日を行ったり来たりしたデタラメさに、愛想を尽かした部分があったわけです」(同)
その後、’90年には「精彩を欠く長州に気合を入れるため」と、浜口は再度リングに上がり、’95年あたりまで活躍。アントニオ猪木のデビュー30周年記念試合では、ビッグバン・ベイダーと凸凹コンビを結成している(’90年9月30日、横浜アリーナにおいて猪木&タイガー・ジェット・シン組と対戦。猪木が延髄斬り3連発で浜口をフォール)。だが、これはあくまでもサポート活動というのが本人の認識のようで、公式なプロフィールでは’87年引退とされている。
引退後は「気合だ〜!」のフレーズとともに、テレビなどで素っ頓狂な姿を見せることも多いが、本来は生真面目な人柄で、主宰するアニマル浜口道場の出身者たち…大谷晋二郎や小島聡、内藤哲也らが長くトップで活躍しているのも、浜口の教えがあってこそという声は多い。
’69年、国際プロレスでデビューした浜口は、身長180センチにも満たない小柄な体で外国人レスラーに真っ向からぶつかり、派手に玉砕するという“名ジョバー”的存在であった。
転機となったのは、国際はぐれ軍団の一員としてラッシャー木村、寺西勇と新日マットに乗り込んだこと。重厚な木村と動きまくる浜口の取り合わせの妙もあって、徐々に目立つ存在となっていった。猪木と国際軍団の1vs3マッチの初戦では、猪木を疲労させることで木村のカウントアウト勝ちにつなげ、2戦目ではフェンスアウトの反則とはいえ勝利をもぎ取っている。
★国際はぐれ軍団を経て維新軍へ
「地方巡業の際、新日勢に混じって誰よりも声を出して練習する姿を見た猪木は、選手たちに『おまえら浜口を見習え!』と檄を飛ばしたそうです」(同)
長州維新軍への加入もいわば新日によるヘッドハンティングであり、その期待に応えるように、長州の存在を引き立てる名脇役として奮闘している。
浜口の現役時代を振り返ったときに、コーナーポスト最上段から相手の足首をつかんで落とすハイジャック・パイルドライバーや、長州のバックドロップと浜口のダイビング・ネックブリーカー・ドロップの合体技など、タッグでの雄姿を思い出す人は多いだろう。
シングルの名勝負としては、全日でのジャンボ鶴田戦が挙げられよう。
’86年3月13日の日本武道館大会で行われた全日vsジャパンプロの全面対抗戦。体格や実績の差から浜口劣勢は明らかだったが、全身全霊をぶつけていく闘いぶりと、鶴田の必殺フルコースを食らって敗れた後、リング上で「負けたーっ!」と絶叫する浜口の姿は、どこか清々しくもあり、この日一番の好勝負と賞賛されたものだった。
「試合前に実況の倉持隆夫アナが『負ける要素は何もありません、鶴田』と言った際、解説の馬場はやんわりとたしなめ、試合中も終始、浜口のファイトを褒めていました」(同)
猪木と馬場の両者から手放しの高評価を得たレスラーなど、そういるものではない。それだけでも浜口が希代の名レスラーであったことの証しである。
アニマル浜口
***************************************PROFILE●1947年8月31日生まれ。島根県浜田市出身。身長178㎝、体重103㎏。
得意技/エアプレーン・スピン、ダイビング・ネックブリーカー・ドロップ。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)