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今では国会議員の姿がすっかり板に付いた馳浩。地方も含めれば議員レスラーはたくさんいるが、議員とレスラーの両方で成功したとなると衆参合わせて当選8回、文部科学大臣まで務めた馳は抜きん出た存在だ。
「森喜朗元首相の秘蔵っ子ですから政治家としての血筋もよく、安倍晋三首相の次はともかく、次の次、さらにその次ぐらいなら首相の可能性もあります」(一般紙政治部記者)
かつて「総理としてリングに上がりたい」と語ったこともある馳だが、決して夢物語ではないようだ。
プロレスラーとしては2006年、武藤敬司時代の全日本プロレスにおいて引退試合を行っているが(当時45歳)、’17〜’19年には連続して、やはり武藤がプロデュースするプロレスリング・マスターズに参戦。年1回のことではあるが、現役時代と変わらぬ張りのある体でジャイアント・スイングを披露している。
1984年、ロサンゼルス五輪レスリング日本代表の看板を引っさげ、同じ専修大学の先輩である長州力のジャパンプロレスに入団。五輪前には高校の国語教師として、教鞭を執っていたことからも注目を集める。
半年間の練習期間の後、海外での修行を経て、’87年に新日本プロレスのリングで日本デビュー。いきなり小林邦昭からIWGPジュニア王座を奪取している。
スポーツエリートでありながら、早い段階からプロレスに順応したのが馳の非凡な点で、師匠格の長州も開花するまでには時間がかかっている。ジャンボ鶴田にしても、デビュー当初には「やる気が見えない」など批判的な声は少なからずあった。
ところが馳の場合、リング上の動きのみならず、プロレス的な精神の部分もきっちりとおさえていたのだから並ではない。
テレビ中継の『ワールドプロレスリング』がバラエティー色を強めた『ギブUPまで待てない!!』にリニューアルされた頃、司会の山田邦子が流血を見て「血ってすぐに止まるものなんですか?」と質問した際に、馳が「くだらない話を聞くなよ!」と一喝したことで留飲を下げたファンはきっと多かっただろう。
’90年には同じジャパンプロの門下生である佐々木健介とのタッグで、IWGPタッグ王座を獲得。’93年にトーナメント形式で行われた第3回G1クライマックスにおいては、同年代の橋本真也や蝶野正洋を破って決勝戦に進出している(藤波辰爾に敗れて準優勝)。
★狂虎と巌流島で流血デスマッチ
「峠を越えた猪木やタイガー・ジェット・シンが相手でも、その力を引き出して全盛期ばりの好勝負をつくり上げる巧さがある。また、不器用な健介がトップクラスにまで上がれたのも、タッグでの馳のサポートがいい影響を与えたからでしょう」(プロレスライター)
道場での稽古でもそのテクニックは群を抜いていたというが、そこにとどまらず試合では腰振りパフォーマンスを行うなど積極的にファンを盛り上げていた。
「元教師でクレバーなイメージがありながら、猪木復帰戦をめぐって勃発したシンとの抗争では、カナダ・トロントにあるシンの自宅を訪れ、真冬にもかかわらず池に突き落とされている。揚げ句、巌流島での死闘というやや前時代的なアングルも真剣にこなすのだから大したものです。唯一、欠点らしきものを挙げるとすれば、髪形も含めて作曲家の岡千秋に似たルックスがスター性に欠けるということぐらいでしょうか」(同)
国会議員への転身も、もしかするとこのスター性の部分で、プロレスラーとしての限界を感じたからなのかもしれない。レスラーとしては小柄で地味なルックスでも、国会議員の中にあってはひときわ目立つ存在であることに違いなく、この転身は大成功だったと言えそうだ。
だが、御大・猪木が参院選で落選した’95年に議員当選したことは、猪木自身の意思は不明ながら新日社内で不興を買い、強制的に引退を迫られることになる。
これを不服とした馳は全日へ移籍し、「よそで実績があってもウチでは前座から」とのジャイアント馬場の言葉に従い、議員活動の合間を縫ってレスラー生活を続けた。四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋建太)や秋山準とのシングル戦は、いずれも敗戦に終わりながら、グラウンドで圧倒してその技術の高さを見せつけた。
おおむね順調だった馳のレスラー&議員人生。その最終目的である総理就任、すなわち第16代米国大統領エイブラハム・リンカーンに次ぐレスラー出身の国家トップは、果たして実現するのだろうか?
馳 浩
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PROFILE●1961年5月5日生まれ。富山県小矢部市出身。身長183㎝、体重105㎏。
得意技/ノーザンライト・スープレックス、裏投げ、ジャイアント・スイング。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)