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1989年4月、テレビアニメ『獣神ライガー』のタイアップとして、マスクマンの獣神ライガー(その後にアニメのタイトルに合わせて、ファイヤーライガー、獣神サンダー・ライガーへと変名)が誕生。東京ドームでのデビュー戦では、かつて初代タイガーマスク(佐山聡)とも抗争を繰り広げた小林邦昭を相手に、オリジナルのライガー・スープレックスで堂々たる勝利を収めた。
しかし、テレビ中継においては、実況の辻よしなりアナの配慮不足で「あの山田恵一が獣神ライガーの中に入っていると噂される」などと頻繁に実名を出され、マスクマンにもかかわらず謎も何もあったものではないという状況にあった。
そうした中で、正体について問われたライガーの発したコメントが、「山田恵一は死んだ。リバプールの風になった」である。
「正体は山田ではない」と言えば白々しいし、「山田だ」と言ってしまっては味気ない。そこで「山田恵一は死んだ」とすることで、「もしかして山田ではないのかも…」という含みを残し、さらに「心機一転、生まれ変わった別人格のキャラクターである」ことを印象付けたわけで、実に味わい深い名セリフである。
★卓越したセルフプロデュース力
このとき“リバプール”というビートルズゆかりの地名を出したことも秀逸だった。素顔の山田はどちらかというと試合ぶりもルックスも泥臭いタイプであったが、そこから一転して、ライガーのキャラクターに華やかなイメージを与えることになった。
選手の大量離脱により、素顔の時代から試合をテレビ中継される機会があったとはいえ、この当時はまだデビュー5年目の若手にすぎない。マスクマンとしての成否も分からない状況で発したコメントが、それから30年以上たった今もなお多くのプロレスファンの記憶に残っているということは、他になかなか例を見ないことである。
同じようなコメントとして、ザ・グレート・カブキの「高千穂明久(カブキの前のリングネーム)はミズーリ川に身を投げて死んだ」もあったが、それと比べても“リバプールの風”の鮮烈さは際立っている。
こうしたセンスのよさが活かされて、橋本真也戦で発達した上半身を見せつけたバトル・ライガーやパンクラスのリングで鈴木みのると闘った格闘技仕様などは、大きな話題を呼ぶこととなった。
デビュー戦を飾ったオリジナル技を「見た目が分かりにくい」という理由で早々に封印し、よりインパクトの強いフィッシャーマン・バスターやライガー・ボムなどをフィニッシュに使うようになったあたりにも、セルフプロデュース能力の高さが見て取れる。
ライガーは自身のことだけでなく、ジュニア界全体のプロデューサーとしても手腕を振るった。’94年に開催された『スーパーJカップ』では、ザ・グレート・サスケやハヤブサなどインディー界の逸材を満天下に知らしめ、日本のプロレスビジネス全体を底上げすることに成功している。
★引退してすぐにWWE殿堂入り
また、新日本プロレスのジュニア戦線においても、ライガーのデビュー当初はそれまでのトップ選手がヘビー級に転向して手薄になっていたが、外国人、日本人を問わずさまざまなレスラーを積極的に取り上げることで、新たな世界観を創り上げた。
初期のライバルとして激しく争った佐野直喜(現・佐野巧真)は、すぐにSWSへ移籍してしまったが、その後は新日の練習生として来日していたクリス・ベノワをペガサス・キッド(のちにワイルド・ペガサス)として自身のライバルにまで育て上げた。
ベノワはその後、同時期に新日へ参戦していた2代目ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)とともに、WWEのトップスターにまで成り上がったが、そこには少なからずライガーの影響があったに違いない。
こうした近い世代の選手たちのみならず、引退試合で相手を務めた25歳下の高橋ヒロムに至るまで、団体や世代を問わず数多の選手たちと長きにわたって闘ってきた。全身コスチュームのマスクマンであるため、見た目に年齢を感じさせないという利点はあったにせよ、そんな選手は世界中のプロレス界を見渡してもライガー以外にほとんど見当たらない。
その実績や実力からしてライガー自身がジュニア帝国のトップに君臨することもできただろうが、決してそうはせずに、たとえ未熟な相手であっても自分のレベルまで引き上げることによって、高度な試合を提供し続けた。
つまり自分だけがスポットライトを浴びることよりも、ジュニアの世界を盛り上げることを常に選んできたわけで、引退から間もなくWWE殿堂に選ばれたのも当然のこと、まさにプロレス界の偉人なのである。
獣神ライガー
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PROFILE●1964年11月10日生まれ。広島県広島市出身。身長170㎝、体重95㎏。
得意技/垂直落下式ブレーンバスター、掌底、ロメロ・スペシャル。
文・脇本深八