その理由とはいったい何だったのか?
未完のままで終わってしまったジャイアント馬場とアントニオ猪木のライバルストーリー。
日本プロレスの若手時代に対戦があるものの、エース格に成長した猪木が馬場への挑戦を表明したときには、団体幹部により「時期尚早」と却下され、それ以降は一方的な猪木の挑発を馬場が受け流すという図式が、10年以上にわたって続けられてきた。
馬場自身にまったくその気がなかったわけでもなく、例えば1975年に全日本プロレスが開催した「オープン選手権」は、猪木の参戦を想定したものだったという(もっとも猪木参加となれば、馬場と対戦する前に強豪外国人たちをぶつけて、潰してしまおうという裏の意図もあったらしいが…)。
★夢の対決に向け1億円を提示!?
ついぞ直接対決が行われることはなかった馬場と猪木だが、それでも対戦の機運が盛り上がった瞬間は確かにあった。
’79年8月26日、日本武道館で開催されたプロレス夢のオールスター戦。8年ぶりに再結成された馬場と猪木のBI砲が、アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンの狂悪コンビを下すと、勝利後のリング上で猪木が「2人が今度、リングで会うときは闘うとき」とマイクアピール。馬場もこれに「よしやろう」と応じて、互いにリング上で抱き合った。
しかしながらその後の馬場は、対戦について問われてもオールスター戦以前と変わることなく、(猪木との対戦実現の前に)「クリアすべき問題がある」とにべもなかった。
では、このクリアすべき問題とはいったい何だったのか?
当然、テレビ放映権(全日は日本テレビ、新日はテレビ朝日との専属契約)や興行権は問題になろう。そして何よりも大きいのが、どちらが勝利するのか…。
プロレスマスコミは、こうした点に切り込むことはなかった。なぜなら当時、馬場の意に沿わない質問をすれば即座に取材禁止になるような空気があり、また、仮に聞いたところで“真剣勝負”を信じるファンが大多数だった時代に記事化することは難しく、結局、この話はいつしか立ち消えとなってしまった。
しかし、オールスター戦直後には、水面下において馬場が対戦に前向きな姿勢を見せていたと、その交渉にあたった栗山満男氏(当時のテレビ朝日系『ワールドプロレスリング』プロデューサー)は著書などで語っている。
その内容はというと、ファイトマネー1億円の提示に対しては、馬場から「税金対策の意味からも、1000万は新日から受け取るとして、残り9000万はテレ朝から借り入れという形にしてもらいたい」との要求があったとする具体的なもの。
馬場が猪木に負ければ全日の存続は困難で、解散の後に新日に吸収合併されることも想定。馬場自身は引退して、ハワイ暮らしをするプランも話していたという。
だが、これら栗山氏の証言が真実だとすれば、先に掲げた問題はいずれもクリアされることになる。高額ファイトマネーと引き換えに勝敗や興行権を新日と猪木に委ね、全日解散後にテレ朝のバックアップが約束されれば、日テレとの間には道義的な問題が残るだけである。
再三にわたる猪木の無礼に謝罪を求めたとしても、対戦実現のためなら猪木は喜んで頭を下げただろう。また、全日の興行に関わってきたプロモーターや関係者などの問題は残りそうだが、これも新日が興行を増やすなどして対応できそうではある。
しかし、馬場は栗山氏との交渉から間もなく、理由も言わずに対戦の白紙撤回を申し出たという。
★最もクリアできなかった問題
この件を察知した日テレが好条件を提示した、または日テレから膨大な違約金を請求された、やはり猪木への不信感が拭えなかったなど、理由はいろいろ推察できるが、もう一つ、きっと事前に馬場が相談していたであろう相手がいる。
馬場元子夫人だ。このとき馬場41歳、元子夫人は39歳。不惑を過ぎたばかりの夫が隠居を言い出したときに、いくら金の不自由がなさそうだとはいえ、妻は素直に納得するものだろうか。
70歳まで生きるとしても余生は30年。これを隠居として過ごすよりも「もうひと頑張りしなさい」とケツを叩くのが、世の大半の奥方ではないか。
長年にわたり愛する夫のことを悪く言ってきただけに、猪木の軍門に下ることが、損得抜きで嫌だったということも十分あり得る。
むろん、まったくの推測には過ぎないが、もしそうであったなら馬場としても「嫁に反対されたから」とは言いづらく、白紙撤回の理由を言明しなかったことにもつながってきそうではある。
ジャイアント馬場
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PROFILE●1938年1月23日生まれ。新潟県三条市出身。身長209㎝、体重135㎏。
得意技/16文キック、ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ。
文・脇本深八