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真面目一辺倒では何かと生きづらいもので、それは一般社会もプロレス界も同じこと。練習の虫で職人気質の木戸修が、新日本プロレスの中でどこか浮いた存在になったのも、自然の成り行きであったか。
「地方巡業のとき、練習後の休憩時間だったのか会場近くの公園のベンチで、一人ポツンと座っている木戸を見かけたことがあります。新日のジャージを着ていなかったら、ちょっとガタイのいい人にしか見えませんでした」(プロレス記者)
女遊びなどしないために「同性愛者」だとか、試合中も髪が乱れないことから「カツラ」だとか、陰口を叩かれることもあった。後年、実の娘である木戸愛がプロゴルファーとして活躍し、そのとき取材に同席した木戸の頭部は、年相応に地肌がうっすらと透けていた。それを見れば同性愛とカツラのいずれもが、デマであったことが分かる。
1968年、18歳で日本プロレスに入門した木戸は、その道場で、当時、コーチを務めていたカール・ゴッチと出会う。
ゴッチ流のハードトレーニングに音を上げる者が多い中、木戸は一切の愚痴を漏らすことなく稽古に励み、ゴッチからは「マイ・サン(わが息子)」と呼ばれるほどの信頼を得ている。
「引退時に初めて明かしたのですが、木戸がそこまで徹底して練習に取り組んだ理由は、先に日プロに入門しながら練習中のケガでデビューがかなわなかった、実兄の存在があったそうです」(同)
道半ばであきらめざるを得なかった兄に代わって、絶対にプロレスラーとして成功するという信念があったからこそ、ストイックなまでの修行に耐えられたのだろう。
木戸は常に中堅のポジションで、時にはジュニアクラスで初代タイガーマスクのパートナーを務めたりもしたが、ファイトスタイルは一貫していた。
使う技はゴッチ流のグラウンド・テクニックや突き上げるようなフォームのドロップキック、スイング式ネックブリーカーにダイビング・ニードロップぐらいのもの。脇固めやキド・クラッチを決め技とするようになったのは、第一次UWF参戦以降である。
折り目正しく無駄な動きのない闘いぶりで(だから髪が乱れなかったのか)、地味ながらもその技術の高さを周囲に認められていた木戸は、途中参加となった第一次UWFの「格闘技ロード公式リーグ戦」(’85年)でスーパー・タイガー(佐山聡)や藤原喜明、前田日明らを抑えて優勝。佐山タイガーにこそKO負けを喫したが、藤原や前田を30分近い激闘の末にいずれもサブミッションで下している。
そうした実績からもっと高い評価を受けてもよさそうであったが、元来の自己アピールが少ない性格もあって“いぶし銀の中堅”という立ち位置は引退まで変わらなかった。
★対抗戦で際立つ関節技の切れ味
ちなみに第二次UWFに参加しなかったのは、「第一次UWFに関係していたゴッチが第二次UWFとは絡まなかったから」という理由であった。IWGPタッグ王座を獲得した際のパートナーである前田を含めて、他のレスラーとの交流関係は薄く、UWFにおいても一匹狼的な存在であったようだ。
なおIWGPタッグは木戸が唯一獲得したベルトで、その前の王者は藤波辰爾&木村健吾組。試合は木戸が、木村をキド・クラッチで下している。
その王座戴冠劇と並び木戸の名勝負として挙げられるのが、’90年2月、東京ドームで開催された全日本プロレスとの対抗戦、ジャンボ鶴田&谷津嘉章の五輪コンビと対峙したタッグマッチである。
「パートナーの木村健吾のほうが、当時の新日内における格付けは上でしたが、試合で目立ったのは木戸でした。谷津を足関節やフェイスロックで極め、鶴田のラリアットなどを何度も脇固めで切り返してみせました」(同)
あらためて映像を見返すと、再三の脇固めは1回目よりも2回目、2回目よりも3回目と、徐々に入り方が深くなっているようで、そんなところに木戸の技術力とプライドが感じられる。
「試合自体は“鶴田が貫録の勝利”“必殺バックドロップを出すまでもなく新日勢を一蹴”などと評されましたが、実際には木戸の関節技を恐れた鶴田が、焦って試合を終わらせたように見えなくもない」(同)
無論、あえて木戸の技を受けてみせた鶴田の格上意識もあっただろうが、脇固めから脱した鶴田が即座に木村をボディシザース・ドロップで下した結末は、いくらか唐突な印象もあった。
普段は目立たない木戸が、全日のエースを慌てさせたというのが事実であったならば、それもまた痛快な話ではある。
木戸修
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PROFILE●1950年2月2日生まれ。神奈川県川崎市出身。
身長180㎝、体重105㎏。得意技/脇固め、キド・クラッチ。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)