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1972年のミュンヘン五輪において、柔道無差別級と93キロ超級の2階級で金メダルを獲得したウィリエム・ルスカ。’84年以降は無差別級が廃止されたため、ルスカは五輪柔道における唯一の同大会2冠王者ということになる。
’01年に脳梗塞で倒れてからは長く闘病生活が続き、’15年に亡くなると母国オランダではその死を悼む声が多く聞かれたという。
しかしながら存命中のルスカは、決して柔道家として恵まれていたわけではなかった。
「日本以外の国において、その当時の柔道はマイナー競技の部類であり、しかもオランダにおいては先駆者として、東京五輪で金メダルを獲得したアントン・ヘーシンクがいた。先に快挙を成し遂げた人間のほうが、より多くの脚光を浴びるのはどこの世界も同じことで、日本で例えるなら陸上女子初の五輪金メダルを獲得したマラソンの高橋尚子と、次回大会の金メダリスト、野口みずきの差とでも言いましょうか」(スポーツライター)
年齢で6つ上になるヘーシンクが現役引退後に指導者として、あるいは国際組織の委員として要職に就いたのに対し、少年相手に指導をするだけのルスカは食うに困り、一時期は酒場の用心棒に身をやつしていた。一説には日本でプロデビューする前に、欧州マットでドイツ屈指のテクニシャンとして名高いホースト・ホフマンらと闘っていたとも言われている。
広く言われていることに“ルスカは妻の病気の治療費を稼ぐため、アントニオ猪木の誘いに乗った”というものがある。カネのために柔道家の魂を売ったルスカと、それを買い叩いた猪木を批判的にとらえる見方だが、先に欧州でプロのリングに参戦していたとなると、そうしたニュアンスもやや異なってくる。
むしろ、欧州でくすぶっていたルスカに対し、猪木と新日本プロレスが大きな舞台を用意したという一面もあったのではないか。
異種格闘技戦の後に日本での巡業に参加したときも、プロレスにおいては新人であったにもかかわらず、トップレスラーとして遇しているのだから、ルスカにしても決して不満ばかりではあるまい。
ルスカに関しては、長州力らが「日本人、外国人を含めて最強」と評したような強者伝説も付いて回る。
巡業中にスタン・ハンセンの眼鏡を黒マジックで塗りつぶしたなど、よく知られるイタズラ話にしても、そうしたことができるのは、もし相手がキレても対処できるという己の実力への自信があってのことに違いあるまい。
★後世にまで語り継がれる名勝負
ブラジル巡業の際、バーリトゥードのイワン・ゴメスと対戦して「チョークで失神させられた」などとする言説もあるが、その一方で、シュートを仕掛けてきたゴメスに怒ったルスカが、鉄拳制裁でボコボコにしたという証言もある。
その後、ゴメスが苦し紛れにエプロン外でチョークを仕掛け、そのまま膠着状態になったところで、レフェリーがゴメスのカウントアウト負けを宣告して、慌てて不穏な試合を止めたのだという。
結果的にルスカが、反則攻撃を理由にブラジルでの試合を禁止されたところを見ても、ゴメスが完勝したということではなかったようだ。
総合格闘技の源流の一つであるバーリトゥードの猛者を相手に、互角以上の闘いをしたとなれば、やはりルスカの実力は現代の基準からしても相当なものがあったと言えよう。
「柔道以外にもレスリングやサンボなどさまざまな競技を学び、強さの追求にも熱心でした。’94年に引退前の猪木と戦ったときも54歳にして筋骨隆々の姿を披露していて、実力だけでなく日頃から努力も相当積んでいたはずです」(同)
しかし、ことプロレスにおいてルスカは、いま一つ上達することがなかった。ちょうど新日とWWFとの提携が本格化した時期と重なり、アメリカンプロレスの色合いが強まってきたのも、ルスカにとっては不向きな流れであっただろう。
こうしたことから、ルスカのプロレス転向を失敗とする声もある。同じ柔道出身のバッドニュース・アレンと比べても、プロレスへのなじみ具合は浅かったことに違いない。
だが、’76年に行われた初の格闘技世界一決定戦。歴史の転換期となり、後世にまで語り継がれる試合を実現できたレスラーは、いったいどれほどいるだろう。その一点だけをもってしても、ルスカのプロレス転向は「大成功」と言ってもいいのではなかろうか。
ウィリエム・ルスカ
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PROFILE●1940年8月29日〜2015年2月14日(74歳没)。オランダ・アムステルダム出身。
身長190㎝、体重110㎏。得意技/釣り込み腰、体落とし、大外刈り。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)